コンクールというもの

2019年6月1日

2014年から審査を引き受けている、K音楽コンクールというのがある。主催者のK氏は、数多くの小規模なコンクールを開催しておられ、私は「弦楽器コンクール」を担当している。
 このコンクールの大きな特徴は、演奏終了直後に審査員が口頭で直接コメントすることだ。私は、一方的にコメントを書いて渡すよりも、演奏者と話をしながらコメントできるのは、それなりに良い方法だと評価している。書いたものが後に残るより、むしろコメントしやすいという面もあるだろう。
 ただ、当然のことながら、コメントは細心の注意を払って行わなければならない。高校生ぐらいまでは、師事している先生の影響を強く受けているのだから、その先生の指導がどの段階にあるかを判断しながら、その指導を妨げない内容のアドバイスをしなければならない。私は、「どうしても直して欲しい」という点がある時だけそれを指摘するが、後はできるだけ演奏者を激励し、プラス思考で勉強が続けられるような言葉をかけたいと思ってやっている。
 桐朋学園でも、子供のための音楽教室の試験や高校、大学の夏期講習のオーディションでは、再店員のコメントを渡す。しかし、これはまず担当教員が目を通し、それから本人に手渡すことになっているので、先生が不適切と考えるコメントには、それなりの意見や注釈を加えながらコメントを見せることもできる。だが、口頭で発言してしまったら、それを引っ込めることはできないし、指導者を不快にさせるような発言をしてしまうリスクも覚悟しなければならない。K氏は、口頭でコメントがもらえるコンクールは自分のところだけだからそれが喜ばれているのだ、と主張なさるが、こちらは猛烈な緊張感を強いられるのである。
 「コメントだけにして、順位を決めるのは辞めませんか」と提案したこともあるが、撥ねられた。「ご本人や親御さんは、自分の現在の立ち位置が知りたいのですから、順位は付けた方が良い」とおっしゃる。それはそうかもしれないが、競争を助長することに、私は賛成ではない。
 もともと私は、無類のコンクール嫌いだ。どんなコンクールでも、入賞できるのは一握りの人たちであり、ほとんどは負けるのだ。競争して負けるほど、惨めなことはない。私は、「国際コンクールで1位になりたい」との夢を抱いてパリとロンドンのコンクールに挑戦したが、いずれも4位という結果で、それきり辞めてしまった。「なにも1位にならなくたって、演奏の仕事は続けて行けるだろう」と居直ってしまったのだが、今考えると惜しいことをした。でも、順位を付けられることに我慢ができなかったのである。
 コンクールの必要性はよく理解している。だから、数え切れないほど審査員の仕事をしたし、生徒にもコンクールを受けさせている。だが、決して好きではない。生きて行く上で競争が必要なこともわかるが、それでも「もし競争のない社会が実現したらどんなに素晴らしいだろう」といつも思っている。演奏を志す者にとって、大切なのは競争に勝ち抜くことよりも、どのようにして自分の技術や音楽表現のレベルを上げて行くかということなのだ。
 どんなに素晴らしい才能を持っていても、たまたまその日にもう少し上手に弾いた人がいれば、1位にはなれない。しかも、音楽の審査とはかなり主観的なものであって、必ずしも絶対ではない。コンクールに出て腕を磨くのは良いが、順位については「たまたま今日はこうなった」ぐらいに、軽く考えるべきである。そして、上位の者をもてはやすだけでなく、その下にいる者の努力も讃えられなければならない。Kコンクールの本選に出場する人たちには、このような心がけで臨んで欲しいと願っている。