トップページにも書き込んだが、私は昨日ロンドンから戻った。不覚にも体調を崩し、火曜日には発熱して寝てしまったが、今日は喉の痛みも治まり、どうやら通常どおりの生活ができるようになった。明日からは忙しい仕事を再開するので、もう風邪など引いてはいられない。年末まで一気に駆け抜けようと思っている。
ところで、ちょうど1週間前、私たちはロンドンで「ザ・ウィケッド」というミュージカルを鑑賞した。昔からブロードウェイのミュージカルには関心が高かった私のこと。でも、ここ10数年間は見に行くチャンスがなかった。今回は、クラシックに比べてかなり高いチケットを「ままよ」とばかりに購入し、アポロ・ヴィクトリア劇場のマチネーに出かけた。
開場は満員の観客で溢れ、しかもその観客が、一つ一つの歌や踊りに大歓声を挙げる騒ぎ。だが、私の心は意外に空虚なものに覆われた。考えてみれば当然のことだったのだが、うかつにも忘れていた。最近のこの手のショーでは、必ずマイクロフォンが用いられる。それが、私を白けさせたのだ。
私が初めてブロードウェイの劇場に行ったのは、1964年の夏。「努力しないで成功する法」というニュー時刈るだった。その時、歌の素晴らしさとオーケストラの響きに、すっかり感動してしまったのだ。もちろん、当時はマイクなど使っていなかったから、シンガーたちは、伴奏のオーケストラをしのぐたっぷりした声量を持っていなければならない。私は、その声の響きの美しさや、生のオーケストラと阿吽の呼吸を合わせて音楽を進めていく様子に、すっかり夢中になってしまったのだ。
そうしたものに比べて、今回の「ウィケッド」は、かなりお寒い内容だったと言わざるを得ない。裏声のような貧弱な声が、コーラスやオーケストラを上回る大音量で、こちらへ向かって迫ってくる。音楽そのものはリズムや和音にいろいろな工夫があって、けっこう面白そうなのだが、ひょろひょろした声がそれらの面白さを全部覆い隠してしまう。サウンド・エンジニアという人間がいて、バランスをすべて調節するから、歌い手はただ適当に歌っているだけ。声の質などは問われないというわけだ。まあ、そこまで言うと少し言いすぎになるが、それに近い状況が生まれていた。見る人にとっては、歌だけでなく衣装や踊りも楽しめるが、音の世界だけでミュージカルの魅力を味わおうとする私には、かなり具合の悪い状況であった。
台詞もマイクを通すから、モノラルのテレビで聴いているような案配で、ステージ上の人の動きが全然わからず、これにも私は興を削がれた。隣の妻は、できるだけ私に説明しようとしてくれるが、上映中にあまりしゃべることはできず、私はだんだんつまらなくなって、周りの大騒ぎをよそにうとうとと眠り込む始末だった。ミュージカルというものに過大な期待をかけた後の失望、たぶんこれが私のミュージカル鑑賞の最後になるだろう。
帰国前日の19日夜には、ウィグモアホールで、現在人気絶頂のエマーソン弦楽四重奏団を聴いた。ショスタコーヴィチとシューベルトによるシリーズが開催され、この日はショスタコーヴィチ最晩年の「弦楽四重奏曲15番」と、私の古い友人のチェリスト、ラルフ・カーシュバウムを加えてのシューベルトの「弦楽五重奏曲」が演奏された。ショスタコは、形容しがたいほど暗い音楽で、聴き手に「耐えること」を強いる曲だと感じたが、よく考えられたアンサンブルと内なるエネルギーのすごさに感嘆した。シューベルトは、皆がのびのびと音楽の中でふるまい、エネルギッシュで豪華なシューベルトだった。私は、エマーソンが作り出す響きのすべてに心から共感するわけではなかったが、久しぶりに聴くラルフの美しく健康的な音や、はち切れんばかりの元気さに溢れたエマーソンの演奏には、強い感銘を受けた。「やはりミュージカルよりははるかに心に残るね」と、後から美寧子と話し合った。
クラシック音楽は、本当に素晴らしい。だが、それを多くの人にわかってもらうのは簡単ではない。あらゆる機会に、私たちが携わる芸術音楽の魅力を、より多くの方々に知っていただく活動を力強く続けなければと思っている。