リセット

2012年1月5日

新しい年が明けて5日目の午後、私は一人、ホテルの1室で静かな時を過ごしている。去年の11月、12月は本当に忙しかった。その締めくくりとなった「クリスマス・バッハシリーズ」では、通常ならコンサート2回分のプログラムにあたる「無伴奏作品全曲」を演奏し、とりあえず「今の自分のすべてを出し尽くした」という気持ちで新年を迎えた。

去年は、正月早々コンサートの準備で、新しく弾く曲の譜読みや、韓国まで出かけてのリハーサルなど、ずいぶん張り切って忙しく過ごした。でも今年は、ゆっくり休んでリセットしようと決めた。元日と2日は少しずつ練習したが、3日はヴァイオリンを持たず、ベートーヴェンやチャイコフスキーのシンフォニーのCDを聴いたり、本を読んだりしてのんびり過ごした。点字毎日に書く原稿の材料として、また自分が弾く曲の研究のためにCDを聴くことは多いが、ただ純粋に音楽を楽しむために、長時間CDに耳を傾ける機会はあまりない。珍しくそんな時を過ごしていて、右と左のスピーカーが逆に繋がっていることを発見した。どうも音の聞こえ方がおかしいと気づいたのだが、この前配線をいじったのは半年近く前である。ずっと気づかないまま聴いていたわけで、我ながら驚いてしまった。自分のCDの編集用の録音は何時間も聴いていたが、ヴァイオリンのソロなので左右逆転には気づかなかったし、あら探しばかりしていて響き方まで注意が行かなかったのかもしれない。とにかく、のんびり過ごす時間を持ったお陰で、そんなことにも気づくことができたのだった。

ところで、私は以前から「今年の正月は自宅を離れて、どこかで2・3日ぼうっとした時間を過ごしたい」と考えていた。頭を空っぽにし、自分をリセットして、新たな気持ちで新年の仕事を始めたいと思ったのだ。自宅でのんびりしていてもよいのだが、妻の美寧子が家事や食事作りに励むのを見ながらのんびりしても、あまり休まらないし、どこかに罪悪感も残る。美寧子と一緒に温泉にでも出かけられれば言うことはないのだが、彼女はソロリサイタルを控えているので、そんな余裕はないと言う。そこで私は、一人で休暇を過ごそうと決めたのだった。美寧子にとっても、たとえ短い時間でも、私のいない時を過ごすのは、よい気分転換になると思えた。

最初は、信州か甲州の山間のペンションにでも出かけてみようかと思ったのだが、旅行に時間がかかるし、知らない建物でオーナーたちに手伝ってもらいながら過ごすのでは、気遣いが多くて休まらないかもしれないと考えて、今回は都内のホテルに引きこもることに決めた。やや消極的だが、休むことを優先させることにした。以前から、バリアフリーをキャッチフレーズの一つにしている新宿の京王プラザに泊まってみたいと思っていたので、インターネットで予約し、タクシーで出かけてきた。

予約のとき、備考欄に私が視覚障害者であることを書き添えておいたので、普通の部屋を予約したにもかかわらず、ホテル内に数室ある「ユニバーサルルーム」を用意しておいてくれた。だが、この部屋はインターネットで調べたところでは、とても広くて、洗面所なども車椅子で入れるように十分なスペースがとってあるとのことで、一人で過ごすには少し広すぎると思えた。あまり広い部屋に一人でいると寂しくなってしまうし、物を置いた場所がわからなくなって右往左往する心配もある。そこで、予約したとおりのスタンダードルームにしてもらって、15階の部屋に落ち着いた。期待したとおり、部屋はとても静かで、周りの物音もほとんど聞こえないし、誰かに邪魔されることもない。ゆったりと流れてゆく時間に身を任せ、時折テレビを見たり、本を読んだり、こうして書き物をしたり、うたた寝したりしながら過ごし、食事はベルボーイに案内してもらってレストランへ行っている。日々のあれこれやいろいろな気掛かりから頭を切り離し、リセットしようという今回の目的は十分に果たされたようだ。

さて、ユニバーサルルームはどうなっているかわからないが、この部屋では、シャンプーやリンス、ボディーソープの入れ物が、すべて同じ形をしている。市販品には、ユニバーサル・デザインの考え方を取り入れて、それぞれの容器の形を変えてあるものが増えているのだが、それを採用してくれるホテルはまだ少ない。このホテルでは、全室に盲導犬の立ち入りを認めるなどの配慮をしているが、もう少し細かいところ、たとえばエレベーターのボタンに点字を付記したり、シャンプーやリンスの入れ物の形を変えるなどの配慮をしてくれると、いっそう有り難いと思う。

障害といってもさまざまなので、すべての人に好都合なバリアフリーというのはなかなか難しいのかもしれないが、そうしたところに行き届いた配慮があれば、私はとても和んだ心で滞在できるだろう。1年余り前、名古屋のマリオット・アソシアホテルに泊まった時は、これらの入れ物に点字のラベルを貼るなど、驚くべき対応をしてくれたが、食事へのエスコートを頼むと二人で迎えに来たりして、その仰々しさにいささか窮屈な思いをした。ここは、従業員の親切な態度といい、部屋の静けさといい、とりあえず申し分ないのだが、採点すれば90点といったところか。そういえば、今日の朝食の時、一つのレストランでは、バイキングを手伝って欲しいと頼んだら、もう1軒のレストランのセットメニューの方がいいでしょう、と言われてしまった。相手は親切のつもりだったと思うが、私は少し悲しかった。イギリスあたりだと、一人でどこへ行ってももっと歓迎の意を表してくれるのだが、東京はまだそこまで行っていないようだ。もし100点満点のホテルが見つかったら、またいつか頭をリセットさせるためにとまってみたいものである。