人間性というもの

2015年3月21日

 最近、「人間性」ということを考える。同じ「人類」という種族でも、実に多様な人間性が存在することに、とにかく驚いてしまう。
 たとえば、振り込め詐欺である。よくあんな悪質なことを考えると、ひたすら感心する。FBにそのことを書いたら、「お金にしか幸せを感じないからでしょうね」というコメントが付いた。だが、私だってお金には幸せを感じる。お金がなくなったら、さぞつらいだろう。それでも、人のお金を取ることを考えるだろうか。しかも、知能を使ってだまし取るといった、姑息な手段で盗むなど、決して考えないと思う。
 それに、あれをやっている人たちが、明日にも飢え死にするほど困っているとは、どうしても考えられない。やはり、私とは別の種族なのである。
 そこまで極端でなくても、たとえば常に中途半端な状態で生きている人、やたら元気そうにぶっ飛んでいる人、何でも物事を否定的に受け取って心配する人、やたらお節介を焼きたがる人など、実にさまざまである。
 今日は、ジムに行って自主トレをした。バイクやランニングマシンなど、三つの機械を使って有酸素運動を1時間行ったのだが、機械のあるところまでは誰かに誘導してもらわなければならない。妻と一緒にジムの入り口へ行き、彼女は別のレッスンに参加。私は、受付の人に誘導を頼んだ。
 初めて会った女性だった。私が視力障害者であることに気付いた彼女は、まずバイクへ案内してくれた。それだけではなく、短い間にいろいろなことを話してくれた。
 自分は、今月に入って入社した。まだ機械の扱いには慣れていないから、きっとお客様の方がよくご存じだろう。この間、プールでもお見かけしました。私の名前は○○です。よろしくお願いします。
 そこまで言って、バイクのスタートボタンを押した。「20分後に移動するから、声をかけてほしい」と言ったら、ちゃんと来てくれた。次の場所へ移動する間に、ちょっとなにかにぶつかりそうになった。「ああ、注意しないで歩いていてごめんなさい」と、彼女は即座に謝った。
 しばらくの後、もう一度移動した時は、「段差があります」などときちんと説明してくれた。こういう柔軟性のある人は、きっと幸せな人生を送るのだろうな、と私はほのぼのとした気持ちになった。
 状況を受け入れ、素早く対応できる能力、これは素晴らしい能力だ。私自身、あまり自信はないのだが、そういう人間でありたいと願う気持ちはある。だが、人間性というものはどのように作られるのだろう。
 ジムへ行く前は、中学生のレッスンだった。この人は、なかなか良い耳を持っているし、きれいな音も持っているのだが、なんとなくヴァイオリンへの向き合い方が物足りない。全力で楽器を鳴らすとか、完璧に弾いてやろうとか、そういった気概のようなものがやや不足しているように感じられるのだ。
 エチュードをまあまあに弾いたので、私は次へ進むか、もう一度練習してもらうかで迷った。だが、ここで終わったらその人のヴァイオリンへの取り組みは、変わらないだろうと思った。「もう一度やっていらっしゃい。このまま不完全な状態で終わったら、あなたは上手にならないし、あなたの人生も中途半端なものになってしまうかもしれないから」と告げた。
 人生論が理解できたかどうかは、私にはわからない。だが、もしこの中学生の人間形成がこれからでも可能なのなら、私はもっと物事に正面からぶつかって最後までやり抜くような人になってもらいたい。それは、もしもこの人が音楽家にならなかったとしても、仕事や恋愛で、またその他のことで、後悔しない人生を送るための手助けになるのではないか、と期待するのだ。次回は、どんな演奏を聴かせてくれるか、楽しみにしよう。