元気な心を

2017年1月23日

 1月が終わりに近づいているが、まだしばらく寒い冬から抜け出すことはできない。今朝、ゴミを出しに外へ出て、冷たい風に体内の熱の全てが持って行かれるような気がして、「やれやれ」と気が滅入った。とにかく、寒いのが大嫌いなのである。高校野球やプロ野球が開幕するころの、ほの暖かい気候が待ち遠しい。
 先週の私は、同行援護を頼んで府中のホールまで卒業試験の採点に出かけたり、点字毎日の原稿を書いたり、ジムへ運動に行ったり、もちろん生徒のレッスンもしたり、けっこう忙しく過ごした。だが、なにか心がとても静か、というか、あまり元気が出ないのである。原因はいくつかあるが、その一つはトランプ大統領の就任、もう一つは、ちょっとここでは書きにくいのだが、演奏の仕事について悲観的な出来事が起きた。さほど悩むほどのことではないのかもしれないが、老い先短い身にとっては、少しずつ演奏の機会が減ってゆくのは、悲しいことである。ここ10年で、私の演奏回数はおよそ半数になった。その分だけ、一つ一つの仕事に力を入れれば良い、と考えてきたが、この日本列島の中で、最近は本州、それも関東甲信越以外の地方に出かける機会が激減したのは、やはり寂しいことだ。
 だが、寂しがっていてもなにも好転しない。まずは自分が元気になること、そして、今も昔と同じように、いや、それ以上にしっかりと演奏できることを知らせて行く以外にないのだ。だが、ふと自信が揺らぐ。「仕事が減るのは、自分が下手になっているためではないのか?一つ一つのコンサートでは、インパクトのある演奏ができていると信じているのだが、それは自分だけの思い込みではないのか」と、己を苛む気持ちに襲われる。
 気分を変えたくて、ハイレゾ音源が聴けるCDプレーヤーを買った。ネットで注文するので、思い立った日の翌日には、もうそのプレーヤーが届いた。私は、2015年の「70歳記念演奏会」のライブCDを出したが、その時のレコード会社の人たちが、当日ハイレゾで録音したデータをSDカードにコピーしてくれてあった。これは完全なライブなので、CDの音源とは一部異なっているし、音質はCDよりも優れている。パソコンで聴くことはできたが、ちゃんとしたステレオスピーカーで再生したくて、データをUSBメモリーにコピーし、プレーヤーで再生した。
 あの日のいろいろな情景や、自分の心持ちが胸によみがえってきた。臨場感のあるライブを聴いていると、オーケストラのみんなが弾いている姿や、高関健さんの指揮をする様子が、まるで目に見えるような感覚に包まれた。
 ハイレゾの音、しかもプロが録音してくれた音は、やはり素晴らしい。細かい弓裁きや息遣いまで、聞こえてくるようだ。お陰で、不本意なところもたくさん見つかって苦笑いさせられたが、聴き終わった気分は悪くなかった。あの日のベートーヴェンは、今の私にも元気を与えてくれるような気がした。
 演奏後のトークで、「こんなこと言ったのかな」と思うような、面白いことを述べていた。
 「ベートーヴェンを弾きながら、この曲のような人生を歩みたいと思った。まず長いこと、最後まで元気なこと、途中に悲しいことがあっても立ち直るエネルギーを持ち続けること……」 よくもまあ、皇后陛下と小澤征爾さんを初めとするお客様の前で、こんなことがしゃべれたものだと苦笑した。
 だが、すぐに思った。「この日の自分に戻ればよいのだ」と。自信を失いかけた時、気持ちが萎えかけた時には、この日の自分に戻ってみよう。多くの人たちに支えられて、私はあの日、ベートーヴェンの協奏曲の演奏と、ライブ録音を果たすことができた。それだけのエネルギーが、確かにあった。コンサートの後の皇后様、小澤さんたちとの短い語らい、コンサートを作ってくれた弟子たちとの打ち上げ、幸福感に包まれた帰路。「音楽をやっていて本当に良かった」と心から思えたあの日は、実際に存在していたのだ。その思い出が、私の心に火をともしてくれたようだった。
 これまでも、生きてくる中でずいぶんいろいろな経験をした。悲しみに暮れたこと、怒りに震えたこと、当惑して胸を痛めたこと。だが、日が過ぎればそれらは過去へと流れ、また元気な自分がいた。そのようにして、ここまで来た。これからも、自然体で楽しく前向きに、今の自分ができることを誠意を持って続けること、それが大切なのだと思う。「元気にやっていこうや」と自分の心に語りかける私である。