新しい月のはじめに

2011年7月1日

結局6月も、このページへの書き込みは1回しかできないまま、月が改まってしまった。もう今年も後半である。

相変わらず、私はせっせとツイッターに書き込んでいる。予定表みたいなつぶやきもあれば、衝動的な怒りをぶつけることもある。140字と短いので気軽に書けるし、レイアウトや文章の組み立てもあまり考える必要がないから簡単である。だが、そればかりやっているとただでも怪しい文章力が、ますます落ちてしまうのは明らかだ。それではいけない、何か書こうとパソコンに向かうのだが、すぐ挫折してしまう。困ったものだ。

最近の私は、とても体調が良い。あまり疲れなくなったし、夜もよく眠れる。やはり名古屋へ行かなくなって、肉体的にはだいぶ楽になったようだ。だが、精神的にはどうも鬱々とする日がある。鬱病になったかと思ったりするが、どうやらこれは震災の後遺症らしい。それに、原発の事故はまだ続いている。毎朝毎晩、気の滅入るような暗いニュースがラジオやテレビから流れてくる。これでは、鬱にならない方がおかしいかもしれない。

震災の後で、大勢の外国人演奏家が日本を離れた。「よし、これからは俺たちの出番だ」と私は本気で思った。今の日本には音楽が、音楽の力が必要だ。そのために、精一杯働こうと思った。ところが、さっぱり仕事が増えない。「やはりこの国には音楽家が足りているのだ」と実感させられた。どこからも、私の音楽の力が必要だとの声は聞こえてこない。図らずも、震災によって私は自分の驕りを思い知らされる結果になった。

「被災地の皆さんに音楽を届けたい」とツイートしてみたが、肯定的な反応は返ってこなかった。実際のところ、何かの催しをやれば人でも金銭も必要になる。被災地は、それどころではないのだ。一方で、私は一人で被災地へ乗り込んで避難所や路上で演奏する勇気はない。視覚障害者である私は、移動も簡単ではないし、楽器が何かの拍子に傷つくのではないかと恐れもする。やはり、演奏したいといっても、それは簡単ではないのだ。

だが、もし音楽を届けるなら、CDではだめだ。生きた音楽、心と一緒に奏でる生の音楽を届けるのでなければ意味はない。そんなことを考えていると、またも鬱々とした気分になる。

ひとまず、被災地の皆さんのために何かしたいという気持ちは棚上げしなければならない。来週はアフタヌーンコンサート、そして8月には、私にとってまさに記念すべきイベントである、第25回の「八ヶ岳サマーコース&コンサート」がある。これらにも、どれほどのお客様が集まって下さるか不透明だが、とにかく今の私の気持ちをできるだけ素直に音楽に込め、心から語りかける演奏を聴いていただくことに集中しよう。

アフタヌーンコンサートでは、愛弟子の田島高宏君との共演が、本当に楽しみだ。彼を巻き込んでトークをやるのも、考えただけでにやにやするほど楽しみである。お客様に、一時でも暗い気持ちを吹き飛ばしていただけるような、和やかな雰囲気と、骨のある演奏を味わっていただこうと思っている。皆さん、7月9日の午後2時には、ぜひ東京文化会館へお越しください。お待ちしています。