秋が深まってきた。昨日の夕方、「天気が良いのにずっと部屋に閉じこもっているのはもったいないな」とちょっと外に出てみた。乾いて少しひんやりした空気が、肌に心地よかった。「ああ、これが10月19日の空気だな」と自分に言い聞かせながら、「今はちょうどよいが間もなく寒くなるんだな」と、そんな思いが胸をよぎった。なにしろ、寒いのが大嫌いなのである。
周りの音に耳を澄ますと、人の声や車の音、時折聞こえる小鳥の声なども、春や夏とはなんとなく聞こえ方が違う気がした。音が透き通っているというか、心にまっすぐ届くような感じ。秋にしか感じられない、独特の音風景だ。これは、音の響き事態が変わるのではなくて、こちらの気持ちのせいだと思う。「秋も良いものだな」としみじみ思いながら、家の中に戻った。
今、私は心の平安を得た。しかし、2週間前は大きな不安の中にいた。狭心症の再発、入院を前に「桐朋学園60周年記念コンサート」のリハーサルに母校へ通いながら、「万一途中で胸が苦しくなったらどうしようか」と常に心配を抱えていた。ものの5分も歩いただけで、胸に違和感のある状態で、外出はすべてタクシーを利用していた。こんな状態で仕事を続けて、もしどうかなったら周りの人たちに大きな迷惑をかける。
それだけではない。狭心症の初期は、強い発作が起きて心筋梗塞になる場合も少なくないと、医者から言われていた。仕事を理由に入院を遅らせたのだが、「この仕事に俺は命をかける形になっているんだな。本当にそれで良いのか」と始終自問自答していた。だが、いくら考えても私の答えは「イエス」であった。今後長く生き続けるために、目下の仕事をキャンセルしたとしても、先には何が待ち受けているかわからない。交通事故も、地震もある。たとえ病気が治っても、自分が長く生きられる保証などないのだから、まずはこの仕事をやろう。その決心は、揺るぎのないものだった。
すべてが終わった今、私は当時の自分を振り返ってみる。「なぜあの状態で仕事を続けたのか」と。答えは出てこない。病気を1日も早く治して、安心して次の演奏に臨むために、キャンセルしてもよかったのではないか、と思う。もし本当に再起不能なほどの病気になっても後悔しなかったか、と問われると、やはり答えはわからない。「少し向きになっていたのかな、とも思う。
記念コンサートは、同輩や若い同窓生と共にオーケストラのメンバーとして演奏し、忘れることのできない感動的なステージを経験した。そして翌日入院、10日には治療を受けた。やや困難な治療であったと後で医師から聞いたが、名医のお陰で治療は成功し、ほとんど血液が流れなくなっていた冠動脈が広がって、元通りに血液が流れ始めた。私自身も、治療中には胸苦しさを味わい、その後の18時間の安静も含めて、短いけれど厳しい入院生活だった。
体に活力を取り戻した今、私は一つの心の試練を超えたと感じている。今回は、いささか無茶とも思える自分の判断を神様が認めてくれた。だが、また同じようなことが起こった時、今度は許してくれないかもしれない。常に自分の内心の声を尊重しながら、しかし周りの人たちのことも考えて、その都度賢明な判断をしなければならない。そしてなによりも、もっと病気になりにくい堅固な体が維持できるように、いっそう熱心にならなければいけないと思う。再び元気になれたことに深く感謝し、その気持ちと「生きる喜び」を音楽に込めて、これからも私の演奏を聴いてくださる方々に心を込めて語りかけて行きたい。