失せ物

2016年5月8日

 美寧子のリサイタルが、多くの方々の温かいサポートをいただいて無事に終了し、ゴールデンウィークも終わってしまった。私は今までのところ、あまり代わり映えのしない生活を送っているが、幸い体調には恵まれ、近づくコンサートに向けて、少しずつ演奏家モードに戻りつつあるところだ。3月末から、ずっと休んでいたウォーキングを再開するなど、気持ちも前向きになってきている。
 だが、どうも毎日があまり楽しくない。いや、楽しくないというのとは、少し違う。十分楽しんでいるのかもしれない。ただ、喉元になにかが刺さっているというか、どうもすっきりしないなにかがあるのだ。
 その最たるものは、机の上や棚に山積みになっている点字のパンフレットやCDの類のことだ。どんどんものが増えて、どこへ仕舞ったら良いのかがわからない状態なのだ。これをなんとかしないと、新しくものを買ったりできないし、ものが多すぎてしょっちゅう捜し物をすることになってしまう。「棄てればよい」とわかってはいるが、では何を棄てようかとなると、それだけで延々と悩んでしまうのである。
 加えて、私は自分が何かを置いた場所をすぐ忘れるという、なんとも困った欠点を持っている。目が見えないと、何かを置いて手を離した瞬間に、その物は私の意識から消えてしまう。「そこに置いた」という記憶だけが、その物の存在を私に認識させる。だから、置き場所を忘れるのは致命的なのだ。
 テーブルの上に置いたはずの物を探してどうしても見つからず、騒いでいて、妻に「なぜもう1センチ先まで探さないの?」と言われてしまうことがある。手探りをするのが、実に下手なのだ。記憶が怪しげで、探し方が下手なら、もうどうしようもない。
 家の中から絶対に持ち出していない物を、しょっちゅう無くす。老いた母が、やはり始終捜し物をしていた。自分でそれを嘆いて、短歌に「家が化けたか我がぼけたか」と読んだが、やはりこれは遺伝的なものなのだろうか。いやはや、まことに困ったことだ。
 なんとかして、物を置く時に、その場所をきちんと記憶するように心がけるのだが、これがかなりのストレスになる。ずっと前、ある人と町を歩いていて、障害者手帳を提示する必要があり、ポケットから出して用事を済ませ、すぐに仕舞った。すると、付き添ってくれていた助成が、「さっきと違うポケットに仕舞われましたよ。次に出す時に困りませんか」と言った。「お節介なやつめ」と舌打ちしたい気分だったが、実は私の最大の欠点をすっぱ抜かれた思いで、がっくりと落ち込んだのだ。
 目が見えないのだから、ストレスは極力減らすように、自分でもっと努力しなくてはいけない。家の中でしょっちゅう持ち歩きながら聴いている名刺サイズのラジオが、昨日から見つかっていない。昨日のナイターの最初の方を、そのラジオを使って書斎で聴いていたのだが、書斎の机の上にもベッドサイドにも、食卓にもない。そんなに広い家ではないのに、全くどこへ行ってしまったのだろう。「家が化けたか」ではないが、キツネでもいるのかと思ってしまう。神様、どうかお助けください!