松本のホテルで

2017年9月7日

 雨が、窓ガラスを叩く音が聞こえる。防音効果のある優秀なホテルの窓なのに、この音が聞こえるのは、相当激しい雨が降っているのだろう。だが、室内はその音が聞こえるだけで、ゆったりと静かである。
 松本暮らしは3日目の朝を迎えたが、今年はいつもとは一味違う暮らしをしている。私の健康を気遣って、美寧子がずっと一緒に滞在してくれているからだ。
 オーケストラのリハーサルは、毎日4時から6時ごろまで行われる。私は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲だけに参加するので、去年とは打って変わって、とても楽な仕事である。楽と言っても、練習中は研ぎ澄まされた集中力が要求されるから、楽という言葉は当たらないかもしれないが、3曲のシンフォニーを暗譜した去年に比べれば、天と地ほどの違いがある。だから、ここでの生活は半分がホリデイ気分であり、術後の回復期にはもってこいの日々を過ごしていると言えそうだ。
 午前中、美寧子は近くのスタジオへ練習に行き、私も部屋で練習する。間もなく本番を迎えるバルトークの「コントラスツ」やガーシュインの「プレリュード」は、初めて取り組む曲だからなかなか骨が折れるが、自宅と違って煩わされることの少ないホテル暮らしなので、練習の能率は良い。
 昼過ぎに美寧子が戻ると、一緒に外出して町を歩く。そして、昼食である。彼女は、私が食べ過ぎることを警戒して、「もうその辺にしたら」とか「無理をしないで」と、向かい側の席から警告を発するが、私は箸の動きを止めない。松本の美味しい食べ物に出会うと、コントロールが効かなくなってしまう。「彼女の言うことを聞いた方がよい」と理性ではわかっていても、反対の行動をとる。
 回復期には、みんなから「無理をするな」と言われるが、この場合、食べるのを辞める方が「無理をしていること」になるのではないかと、私は勝手な理屈を付けて食べ続ける。勿論、さほど暴食をしているわけではないが、自宅療養の頃より食べる量が増えているのは確かだ。もう少し注意深く、食生活を考えるべきかもしれない。
 昼食後は、少し散歩をしてホテルに戻り、それからホールでのリハーサルに出かける。美寧子は、ここでもピアノを借りて練習し、私もオーケストラの跡は、少し楽屋で練習してから、一緒にホテルへ帰る。そして夕食だが、それを終えてくつろぐのが8時ごろというのだから、自宅での普段の生活とは大変な相違である。家では、8時ごろから夕食を取り、その後も練習だなんだと、夜遅くまで仕事をする。それだけ仕事量が多いのだから仕方ないが、とにかく今は楽な生活を満喫している。
 だが、のんびりしていると、時々たまらない不安に襲われる。何か重大なことを忘れていないか、こうしているうちに、人生を誤るような大失敗をしていないだろうか、そんな漠然とした不安が心を駆け巡る。まずは、明日の本番である。せっかく松本まで来たのだから、オーケストラの中で、失敗することなくしっかり演奏しなければならない。その緊張感と集中力を、今の私は持てるだろうか。手術から短期間に回復できた喜びを、私はこの演奏に込めたい。自分で、「ここにいて良かったんだ」と感じたい。そういう心になりたい。そのために何ができるか、よく考えながら明日の本番に向けて準備を整えよう。