変貌

2018年2月10日

昨日は美寧子の門下、グループ・ミーノの発表会、そして今日は桐朋の大学卒業試験と、たくさんの音楽を聴いてきた。皆それぞれ、さまざまなレベルで懸命に頑張り、良い音楽をやろうとしている。ただ、演奏の中には「共感できる音楽」とそうでない音楽がある。人にも「好きな人」とそうでない人がいるように、これはどうしようもないことである。
 しかし、「採点」となれば、好き嫌いだけで付けるわけには行かない。たとえ好きなタイプでなくても、巧みな演奏には良い点を与えるし、共感できてもミスの多い演奏には、それなりの点数しか出せない。採点は、そこが難しいのである。
 過去の自分の演奏を聴いて採点したら、おそらくあまり良い点は付けないだろう。「共感はできても演奏として未熟」といった判断になると思う。私自身、テクニックの完全性についてやや甘すぎるところがある。「技術が完璧でも、面白い音楽でなければダメだ」と思っているものだから、ついついそういう練習をしてしまうのかもしれない。今更技術の精度を上げようとしても無理かもしれないが、そうした練習も怠ってはならないといつも自分を戒めている。
 ところで、先日古いLPレコードを整理していて、41年前にロンドン・モーツァルト・プレイヤーズと録音したバッハの協奏曲をちょっと聴いた。今の私の解釈とは全く違う、ゆったりと重いバッハになっている。この時の指揮者、ハリー・ブレヒ氏が、私に輪をかけてゆったりした音楽をやる人だったので、優雅ではあるが今の感覚からはいささか重たい音楽である。
 去年の暮に演奏したバッハとは、全く趣が違う。私は、古楽器奏者たちの解釈を取り入れた躍動感のあるキビキビしたバッハをやりたいと思っていたが、なかなか実現するチャンスがなかった。今回は、アンサンブルの全員がその私の意思を汲み取って、自発的にそういう音楽に向かってくれた。
 40年を経た二つの録音を比べてみて、私は自分のバッハに対する変貌ぶりを目の当たりにし、感無量であった。元々私は、自分が変わることにあまり積極的ではなかった。解釈にしても、普段の習慣にしても、「今までやってきたことを守りたい」という気持ちの強い人間だった。それが、最近は生徒や共演者に「もっと攻めの気持ちでやってみよう」と繰り返し言うようになった。そして、今回の結果は、私自身が攻めの気持ちで古い自分に打ち勝てたことを示す証拠のように思えて、とても嬉しかったのだ。
 これからも、長年弾いてきたレパートリーに対しても新しい攻めの気持ちで、それらの作品と向かい合って行きたい。それができてこそ、お客様に新鮮な音楽の魅力を味わっていただけると信じている。