浮気心で

2011年2月8日

すでに立春も過ぎた。季節はどんどん移り変わって行く。そして私の生活も、少しずつ変わって行く。

1月は「ヘレンケラー・コンサート」などでめまぐるしく過ぎた。だが、嵐のような日々の後には、何か言いしれない寂しさが残った。もちろん達成感はあったが、「終わってしまった」との思いの方が強かったのはなぜだろう。

実際のところ、そのような心の隙間を作っている暇はないのだ。アメリカ旅行は近づいているし、その後には清里でのモーツァルト・プログラムによるリサイタル、バッハのCD録音と、やりがいのある仕事が続いている。だが、去年の秋からずっと気を抜かずに仕事を続けてきた疲れと、名古屋の大学での勤務が終わるという惜別の気持ちなどが重なって、少し心が空虚になった。

そんな思いから逃げ出すために、私は珍しく金銭の浪費をした。元々私には、新しいIT機器やICレコーダーが発売されると、どれもこれも使ってみたくなるという悪癖がある。もちろん、すべてを買い求めるなどということはできないが、音声の出る携帯電話、NTTドコモの「らくらくホン」は、毎年新機種が出る度に買い換えている。

点字を読み書きする小型電子手帳も、何台も持っている。2台あれば十分なのだが、新しい機種の便利な機能を我がものにしたいとの欲望が抑えられず、買ってしまうのである。最近も、新しい小型機器が発売され、私は心を奪われた。いわゆる「モバイルPC」なのだが、画面の代わりに点字と音声ですべてを表示してくれる。ただ、モバイルだからワードやエクセルは使えないし、インターネットも無線LANだけだ。外出や旅行先で、どの程度私の役に立ってくれるかがいささか疑問だし、値段が高いのも二の足を踏ませる原因となった。

それでも、自分のITライフに変化を付けたいという衝動は抑えられない。そこで、いろいろ考えあぐねた末に、重さ500グラムを下回るミニノートパソコンを手に入れることに決めた。これなら、点字機器の4分の1の値段ですむ。点字表示はないが、普通のパソコンだから、旅行先でもやりたいことが安心してできる。これと小型の点字電子手帳を併用すれば、重い荷物を持たなくても、行く先々でパソコンライフが楽しめるというわけだ。

そう決めたら、一刻も待てない。本来は、店頭でパソコンに触ってから決めるべきだが、そんな時間はないので、ネットショップで買った。まさに「衝動買い」である。

翌日パソコンは届いたが、セットアップをしなければ使えるようにはならない。点字の機器なら一人で使えるようにできるが、パソコンは、最初だけは「目の助け」を借りないと、私には手も足も出ない。美寧子に見ていてもらう約束をしたが、彼女は2月4日にモーツァルトの変奏曲を弾くことになっていたので、それが終わったらということにしていた。ところが、実際に終わってみると、今度は八ヶ岳の夏のコンサートに助成を依頼するための書類の締め切りが近いから、そっちが先だという。確かにそれも大事な仕事だが、パソコンのセットアップは1時間あればできる。好きな人なら喜んで「目」を貸してくれるに違いない。

だが、美寧子は元々こういうことにあまり興味がないし、私も「忙しい彼女を煩わせるよりは」と思い直して、翌日、視覚障害者のIT利用をサポートする会社まで出かけてセットアップを手伝ってもらった。私だって練習など、忙しいことは山ほどあるはずなのに、わざわざ高田馬場まで出かけるのだから、我ながら「正気の沙汰ではないな」と思ってしまう。若い頃、好きな女友達と会うためにずいぶん無理をした思い出があるが、あの気持ちに似ていると感じる。とにかく、早く使ってみたくて、我慢ができないのである。

こうして、私の新しい恋人、ミニノートパソコンが、しゃべるようになった。軽くて小さい機種だから、処理能力がさほど高くなく、キーボードからどんどん文字を入力すると、音声が付いてこない。ちょっといらいらするが、これもなかなか自分の思い通りにならない恋人との付き合いに似ているかもしれない。好きになってしまったら、少々のことは大目に見るしかないのだ。

今日からは、愛知県芸で後期学年試験が始まり、私は買ったばかりのパソコンを持ち込んで採点を書き込んでいる。慣れないパソコンなので、前より時間がかかったり、入力を間違えてやり直したりしているが、それでもやっている。一昨年の夏に買ったネットブックもまだ健在だから、当分は浮気心で両方と楽しく付き合おうと思っている。