心のバリアをなくすために(1999/12/22)

「十人十色」と言うけれど、正にそのとおり、視覚障害者にもいろいろな人がいる。持って生まれた性格もあるが、いつ見えなくなったか、そのことを周りがどう受けとめたか、どんな教育を受けたかなどによって、自分の障害との付き合い方がさまざまに違ってくる。だから、「視覚障害者はこうだ」などと安易に決めてしまうのは危険なことだ。以下、思い付くままに私の体験や考えを述べてみ たい。

幸か不幸か、私は生まれてこのかた眼でものを見た経験がない。わが子の眼が見えないと知った両親の嘆きは、どれほど深かっただろうか。しかし、両親はその運命を受け入れ、私が見えないための引け目を感じたりしないように気を配りながら、ごく普通の子どもとして厳しく育ててくれた。そのお陰で、私は実に天真爛漫なのびのびとした子供時代を過ごしたが、今思い返すと、私が追うべき苦労を両親が全部肩代わりしてくれたのではないかという気がする。

三つ年下の弟は理想的な喧嘩相手だったし、仕事で忙しい父も家族への思いやりをいつも忘れなかった。そして母は、私の学校への送り迎えやヴァイオリンのレッスンへの付き添いに加え、楽譜の点訳などもして、私の勉強が円滑に進むよう応援してくれた。この素晴らしい家族に恵まれて、私は生きることの喜びを体得し、それが今も大切な心の支えになっている。

ところで、日本人の障害者に対する考え方は、ここ二十年ほどでかなり変化した。だが、それは「国際障害者年」を契機に諸外国から入ってきた考え方の影響が少なくない。残念なことに、我が民族が古くから持っている習慣、自分と違う種類の人間を蔑視するという心の有り様を変えるのは、なかなか難しいようだ。こうした心がどこかに残っているので、一般の人が視覚障害者に接する場合なども、どこか構えてしまってギクシャクした関係になることが多いのではなかろうか。

私は、ときどき一人でロンドン行きの飛行機に乗るが、なぜか日本よりイギリスの航空会社の便に乗る方が楽しい旅ができる。日本の会社も、最近は我々に対して親切になり、安心して旅行ができるように適切な心配りをしてくれる。だが、ときには腫れ物に触るような扱いを受けて「そんなにしてくれなくても良いのに」と少し肩身の狭い思いをさせられる。自分でできることでもなにかと世話を焼かれ、逆に本当に欲しい情報はなかなか提供してもらえない。彼らだって一生懸命なのだが、欧米人に比べるとどこか構えた感じになる。欧米の人間は、何をするにも、誰と接するにも、人間尊重とユーモアのセンスを忘れない。そのあたりが日本人と少し違うのかもしれない。

飛行機の中でトイレの場所を尋ねると、日本のスチュワーデスは大きな声で 「ご案内しますから私の肩におつかまり下さい」などと言ったりする。私は、誘導を受けるときは相手の肱に軽く触れて後から付いて行くのが一番歩きやすいので、できれば肩にはつかまりたくない。それに、大きな声を出したら周りの人にまで聞こえてしまうではないか。「悪いことではないんだから聞こえたって良いじゃないか」と言われそうだが、こちらはもっとさりげなく振る舞って欲しいのだ。イギリスの乗員なら、「どうぞ」と言って先にたって歩くか、「もう少しまっすぐ行って」などと声で誘導しながら後から付いてくるだろう。

三十年以上前、アメリカのフィラデルフィアの食堂で母と昼食を取っていたときのこと。料理を運んできたウエイターが、「スプーンは三時の所です」と一言いって立ち去った。母は、何が三時なのかと驚いたらしい。私は、「テーブルの上を時計に見立てて、食器や料理の場所を眼の見えない人に知らせるという話を聞いたことがあるよ。彼はきっとそれをやったんだよ」と説明した。私の眼が見えないことを察知した彼が、ごくさりげなく私だけにわかる方法でメッセージを送ってくれたのだ。「さすがはアメリカだな」と感心したものだ。

豊橋の駅に隣接した新しいホテルに泊まったとき、そこの従業員の応対にとても心温まるものを感じた。知人にフロントまで送ってもらうと、中にいた女性が「お部屋までご案内します」と出てきてくれた。「慣れていないのでご不自由かもしれませんが」と言いながら、彼女は朗らかな態度で私を部屋まで案内し、中の配置などを手際よく説明して去っていった。「慣れているかいないかはどちらでも良い。用は気持ちなんだ」と、私は嬉しかった。ここに働く人は皆開かれた態度で率直に接してくれ、一人でバイキングの朝食に行ったときも、私が求めるものを親切にきちんと運んでくれた。ホテルによっては、こちらが頼みもしないものを運んできたり、何があるのか尋ねてもなかなか説明してくれなかったりで、じれったくなってしまうこともある。気を回すのは日本人の美徳かもしれないが、 眼が見えず周りの状況把握が難しい我々には、正確な情報の提供が何よりも有り難いのだ。

盲人への接し方などを解説した冊子もあるようだが、電気製品ではないのだからマニュアルなどに頼る必要はない。まずは、同じ人間同士として付き合って欲しい。見えない私たちも、いたずらに警戒したり気負ったりせず、素直な気持ちで眼の見える人たちに接して行きたい。互いに、相手を尊重しながら心を開いて行けば、もっと多くのことを学び合い、より広い世界を共有できるに違いない。このことを目標に活動する、「視覚障害を考える会」のますますのご発展を願うと共に、私も音楽を通じてもっと多くの人たちと幸せを分かち合えるよう努力することをお約束して、拙文の終わりとしたい。

99年12月 和波たかよし