日本が第二次世界大戦に敗れ、平和国家として生まれ変わってから、今年で六十年になる。敗戦の四カ月前に生を受けた私も、新しい日本と共に歩んで間もなく六十歳の誕生日を迎える。
もし日本が平和でなかったら、私は決して今の幸福を得られなかっただろう。戦争の反省から、人が人を大事にする社会、互いに傷つけ合うのでなく、相手の良さを認めながら共存する社会の実現を願う空気の中で、私は子供時代を過ごした。それがどれほど掛け替えのないものだったか、今あらためて痛感している。
私は、生まれた時から視力がなかった。このことが、私の人生に決定的な影響を与えたのは言うまでもない。だが、神は私に視力以上の素晴らしいものを与えてくれた。それは両親をはじめとする周囲の人々の温かい愛情であり、音楽との出会いだった。
六十年近い道のりの途中には、生き方を決定づける大きな「転機」もあった。そして、その転機のいくつかが、山梨県と深いかかわりを持つ出来事だったのである。一つは、一九五九年に封切られた映画「いつか来た道」への出演、もう一つは今年が二十回目となる「八ケ岳サマーコース&コンサート」である。
毎日のバイオリンの練習と盲学校への通学生活に明け暮れていた中学生の私にとって、映画出演はまさに青天の霹靂(へきれき)とも言える出来事だった。ウィーン少年合唱団の来日に合わせて音楽映画を作る構想が持ち上がり、島耕二監督が日本側の主役を物色する過程で、私のことが目にとまったらしい。山梨のぶどう園に生まれ、夭逝(ようせい)した父の跡を継いでバイオリニストになる夢をはぐくむ少年、というのが私の役柄だった。
両親は突然のことに戸惑い、「映画に出るなんて」と消極的だったが、映画会社の熱心な説得と共に、私自身が「やってみようかな」と心を動かしたことで、出演が決まった。皇太子のご成婚で国中が沸き返っていた一九五九年の四月、うららかな春の午後、私は勝沼の広々としたぶどう畑にいた。
マンツーマンで行われるバイオリンのレッスンと、盲学校の少人数のクラスが生活の大半を占めていた私は、数十人が右往左往する撮影現場の雰囲気にすっかり気圧(けお)されていた。すでに知っていた監督や助監督の声が聞こえるとほっとするのだが、ほとんどは初めて聴く声ばかり。私にずっと付き添ってくれている母も、いよいよ撮影となればそばを離れる。目の見えない私には、まるで孤独の世界が訪れたような瞬間だった。
撮影は、私が野外でバイオリンを弾き、妹がそばで飛び跳ねて遊んでいるシーンから始まった。あらかじめ私が録音したバイオリンに合わせて演奏し、映像を撮るのだ。
数回のテストの後「その調子」と言われ本番に入った。だが、どうしたのだろう、突然録音された音の回転が速くなり、いつもより一音ほど高く再生された。私は、とにかく無我夢中で、その速さについて弾きながら「どうすればいいんだろう」と頭を巡らした。
二分ほどの録画が終わると、「オーケー」とどなり合うスタッフの声。私は近くにいた人に「今のはオーケーではありません」と告げた。「何事」と飛んできてくれた助監督に訳を説明し、調べてみると確かに撮影時間が十数秒短くなっていた。
すぐに撮り直しが行われたが、それ以後は一つのカットを撮り終えると、スタッフが必ず私のオーケーを求めてくれるようになった。社会に向かってものを言った瞬間、私には忘れられない映画撮影の初日であった。