音と歩いた道2「映画出演への思い」(2005/2/2)

昨年暮れのこと、一人のアマチュア音楽家から、映画「いつか来た道」のサウンドトラック盤をCDに焼いたのでプレゼントしたい、と声をかけられた。それは、映画と併せて発売されたドーナツ盤のことで、私とウィーン少年合唱団が共演した「この道」が収録されている。あの映画は文部省(当時)の推薦を受けたため、多くの小中学生が鑑賞し、レコードもかなりの売り上げを記録したようだった。だがその演奏は、私にとって苦い思い出の味を持つものなのだ。

山梨のロケから帰京してすぐ、「この道」の録音は行われた。合唱団員が初めて撮影所を訪れるとあって、多くの報道関係者で賑(にぎ)わう慌ただしい雰囲気の中で、私はバイオリンを弾いた。二度の録音ですぐOKが出た。だが、まだ合唱団のピアニストとの呼吸も合っていないし、あちこち不本意な音も出したので、私はもう一度取り直したいと申し入れた。しかし、時間がないとの理由ではねつけられた。ぷりぷりしながら撮影所を後にした私を、新聞は「和波君おかんむり」と書いた。

強硬に申し入れた結果、日をあらためて静かなスタジオで収録が行われ、これは満足のできる演奏に仕上がった。映画のラストシーン、病気の稔に代わって妹のみよがウィーン少年合唱団と共演する場面で使われている演奏は、この再録音である。しかし、レコードの方は取り直しを待たず、前の不本意な演奏が発売されてしまった。

今もドーナツ盤を大切に持ち続けている人の心を思えば、あの映画が当時の少年少女たちにどれほど強いインパクトを与えたかが想像される。だから、私は彼の好意を喜んで受けるべきだったかもしれない。「あの演奏は聴かないと思います」と、受け取るのを断った自分の頑(かたく)なさに戸惑い、ずっと心に引っかかるものが残った。あの映画に対する私の思いは複雑だ。もちろん、映画が大きな反響を呼んだことには喜びを感じていたのだが、次第に「映画に出た自分」を疎ましく思う感情が起こってきた。

映画から十年も二十年もたった後でも、私を見て「バイオリニストの方ですか」ではなく「映画に出た方ですか」と言われると、何とも言えぬ反発を覚えた。映画出演は、いわばものの弾みだ。一方、演奏家としての地位は長い間の努力と実力で手にしたものだ。それなのに、人は映画のことばかり覚えている。おかしいではないか、とそんな思いがわいてくるのだ。だが、あの映画が私の存在を日本中に知らしめ、それが後の演奏活動にある種の助けとなったのは確かなことだ。私はその事実を素直に受け入れて、感謝すべきなのだ。

一昨年の秋、ロケ地の勝沼町で「いつか来た道」の上映会をするので出席してほしい、との誘いがあった。姉の役を演じた山本富士子さんも来られるという。あまり気は進まなかったが、勝沼では一九九六年と九七年に演奏会を開いていただいたこともあり、むげには断れなかった。それに、「そろそろ映画に出た自分を受け入れて、町民の皆さんと一緒に見るのも良い機会かもしれない」と思い直し、撮影にもずっと付き添ってくれた母を誘って勝沼へ出かけた。

よく晴れた晩秋の一日、私たちはロケに使わせていただいたぶどう農家を訪れた後、上映会に出席し、山本富士子さんと四十五年ぶりの再会を果たした。山本さんは映画の役柄をそのままに、まるで姉のような優しさで私に接してくれた。

続く映写中には、客席のあちこちから「ああ、この場面の撮影を見に行ったわ」などとささやき合う声が聞こえていたが、死を間近にした稔が少年合唱団と対面する場面では、館内がひっそりと静まりかえり、そこここからすすり泣きの声が漏れた。「封切り当時と同じ反応だ」と、私は懐かしく思い出した。経験豊かな山本さんと、芝居の心得など全くない私や妹役の黒岩さんの取り合わせの妙が、見る人を引き付けるのかもしれない、と感じた。

終演後には、何人もの方から「また演奏を楽しみにしています」「頑張って下さい」などと声をかけられた。「映画に出て良かったのだ」と素直に思える、幸福な瞬間であった。

和波たかよし