映画「いつか来た道」の撮影は一カ月で終わった。私はバイオリンや勉強の遅れを取り戻すべく、学校通いと練習に明け暮れる生活に戻った。映画が文部省(当時)の推薦を受けたため日本中の小中学生が鑑賞し、大きな反響を呼んでいたが、私の頭の中からは映画のことが次第に遠のいていった。しかし、ウィーン少年合唱団と共演した経験は、音楽の古里であるヨーロッパへの興味と憧(あこが)れを私の中で大きく増幅させたのだった。
その後、ウィーン少年合唱団員との交流は細々と続いた。メンバーは変声期が来れば合唱団を去らねばならないので、どんどん入れ替わる。しかし、ピアニストのクサバー・マイアー氏は合唱団と共に何度か来日したので、私は電話で話すなどの連絡を保っていた。そして、初めてヨーロッパへ渡った一九六五年には、ウィーンのお宅に呼んでいただいて、お茶やお菓子をご馳走(ちそう)になった。若い奥様と、まだ一、二歳のかわいい子供のいる幸せそうな家庭に、心和む時を過ごしたことを思い出す。
それから五年ほどたったある秋の夕刻、ザルツブルクからウィーンへ向かう列車の中で、リンツ駅から乗り込んできた見知らぬ乗客に「コノミチワ」と声をかけられてびっくりした。最初は「こんにちは」と言おうとしたのかと思ったが、そうではなかった。映画で歌った「この道」の歌詞の冒頭を覚えていたのだ。その元合唱団員は、車内を見てすぐ「映画でバイオリンを弾いた少年だ」と気付いたそうだ。ウィーン国立歌劇場で裏方の仕事をしていると話す彼に、「近々『トスカ』を見に行くつもりだ」と告げると、オペラのストーリーや出演する歌手たちの特徴などを熱っぽく語ってくれた。「自身では歌手の道を進まなかったものの、彼は本当にオペラが好きなのだな」と私は感じ入った。
もっと驚いたのは、一九八五年の秋、突然オーストリア政府観光局から連絡をもらった時だった。「来日中のシュテーガー副首相が和波さんに会いたいと言っているので、観光局まで来てくれないか」とのこと。シュテーガー氏も映画の時の団員の一人だったのだ。観光局で会った副首相は、声楽家のようにふくよかな声で、「歌手を続けてもオペラの主役を歌うほどの才能が自分にはないと思ったので、ほかの道でトップクラスを目指した。後悔はしていない」と語った。「その気持ちが彼を副首相の地位にまで押し上げたのか」と納得する一方で、「俺ならトップクラスでなくても音楽家の方がいいな。いや、どっちみち自分には音楽以外の道など見いだせなかったな」とちょっと複雑な気分だった。
時は流れて昨年の五月。サイトウ・キネン・オーケストラのメンバーとしてウィーンで演奏した私を、フランツ・シュロッサーという元合唱団員が訪ねてくれた。彼は、偶然別の知人から私が来ることを聞き、「コンサートを聴きに行くので会いたい。一緒に食事をしよう」とメールをくれたのだった。日本旅行や撮影所での写真なども見せながら、シュロッサー氏は「あのころは旅行が今ほど気軽でなかったから、一度旅に出ると二カ月も帰れないことがあった。日本で映画に出演した時も、その後オーストラリアやニュージーランドを回ったんだ」と懐かしそうに振り返った。
彼は今も合唱団を支える理事の一人として、実際に子供たちの面倒を見ていると話し、「今度ウィーンに来たら、合唱団が生活しているアウガルテン宮殿を訪ねてほしい」と招待してくれた。「天使の歌声」と言われるウィーン少年合唱団員でも、音楽の道に進む人は多くない。私は、まっすぐにバイオリニストの道を歩き続けてこられた幸せをあらためてかみしめる。もしアウガルテンへ行く機会があったら、子供たちにバイオリンで語りかけたい。「音楽って本当に素晴らしいものなのだよ」と。