前回は、サイトウ・キネン・オーケストラのメンバーとしてウィーンで演奏したことを書いた。私がオーケストラの中で弾いているのを見聞きした人からは、よく「指揮棒を見ないでどうやってオーケストラで弾けるのですか」とか「どうすればあんなに長い曲が暗譜できるのですか」などの質問が寄せられる。「訓練と経験です」としか私には答えられないのだが、その訓練を施してくださったのが、ほかならぬ斎藤秀雄先生だったのである。
戦後間もなく、桐朋学園を舞台に始められた斎藤先生の教育の一つの柱は、オーケストラで合奏技術を身に付けさせることだった。私が桐朋の大学で学びたいとの希望を持った時、斎藤先生は「桐朋ではオーケストラが必修だから、皆と一緒に弾けるように前もって準備しておいた方がよい」と言われた。
盲学校の高等部に通っていた私は、土曜日の午後に時々桐朋へオーケストラの練習を聴きに行き、バイオリンパートの一番後ろに先生が設けて下さった席で、母が点訳してくれた楽譜を見ながら皆が弾くのを聴いていた。これにより、実際に自分が音を出した時のイメージを掴(つか)むことができたので、大学に入って練習に参加した時は、ほとんど戸惑いを感じなかった。暗譜は大変だったが、一曲を何度も長時間練習するペースに助けられ、なんとか付いていけた。
斎藤先生がどれほど怖かったかは、小澤征爾さんらもよく語っているが、直弟子でない私も、先生の怖さは身にしみていた。練習の間中、一フレーズごとにどんな表情を付けるのか、厳しい指示が飛んだ。また、ちょっとでもメンバーがだらけてアンサンブルが乱れると、烈火のごとく怒って途中でご自分の部屋へ引っ込んでしまわれることもあったので、皆かなりぴりぴりしながら練習していた。
今の学生たちに話してもわかってもらえないかもしれないが、我々にはあの厳しさが必要だったのだ。「音楽は神聖なものだ。いい加減な気持ちではだめだ」と先生はよく言っておられた。その言葉には深い真実があると思う。
怖かった一方で、斎藤先生はどこまでも信頼を寄せていきたい親父(おやじ)のような面も持っておられた。私も、「先生がやれるというのだから必ず俺にもやれるんだ」と信じてオーケストラの練習に励んでいた。そのような先生だからこそ、小澤さんをはじめとする教え子たちが、今も「サイトウ・キネン・オーケストラ」という形でその遺徳を顕彰しているのだ。そして私も、自己の能力を最大限に引き出してくださった先生への感謝を込めて、サイトウ・キネンへの参加を続けている。
斎藤先生以外にも、私はその時々に師と仰ぐ偉大な指導者と巡り会う幸運を得た。長く師事していた江藤俊哉先生は、バイオリンの音の真の美しさを、そして「生きた音楽とはなにか」を教え込んでくださったし、イタリアのシエナで毎夏開催されるキジ・アカデミーで教えを受けたセルジョ・ロレンツィ先生からは、楽譜をいかに読み解くか、ピアノとのアンサンブルをどのように作っていくかを学んだ。
さらにシゲティー、オイストラフ、ヴェーグなど巨匠の門もたたいて教えを請うた。それらの偉大な音楽家から学んだ最も大きなことは、彼らの音楽への限りない愛情、そして自分をなげうって音楽に奉仕しようとする真心であった。
二十代後半からは海外でのコンサートも増え、日本とヨーロッパを忙しく往復する生活が続いた。その一方で、「後輩たちにも恩師たちの貴重な教えを伝えていくのが自分の使命ではなかろうか」と私は考え始めていた。この思いが、大泉での八ケ岳サマーコース開催へと繋(つな)がっていったのだった。