音と歩いた道5「八ケ岳サマーコース誕生」(2005/2/17)

一九七七年に結婚した私は、スイスのバーゼル郊外にアパートを借りてヨーロッパの拠点にした。毎年三月から九月ごろまでバーゼルに滞在してスイス国内やドイツ、イギリスなど周辺の国々で時々演奏し、残りの半年は日本で働くという生活を五年ほど続けた。

バーゼルの暮らしはあまりにもゆったりとのどかで、ばりばり仕事をする環境ではなかったが、私にとっては、あのスイスでの経験こそ、今の自分を形成する上で極めて重要な意味を持つ大切な期間だったと考えている。その間に、私たち夫婦は心の繋(つな)がりを親密なものにできたし、楽器を弾きながら自分の出す音に耳と心を集中してよく聴くという、演奏家にとって大切な習慣を身に付けることもできた。毎日美味(おい)しい空気を吸い、野鳥や羊の声に耳を傾け、自然を身近に感じながら過ごす掛け替えのない日々だった。

妻のピアニスト、土屋美寧子は一九七九年から六年続けて、スイス南西部の山あいの村エルネンで開かれていたジェルジ・シェベック教授の講習会「エルネン・ムジークドルフ」に参加し、私も同行してレッスンを聴きながら休暇を過ごした。エルネンは海抜千二百メートル付近に位置する小さな村だが、中世期にはスイスとイタリアを結ぶ交通の要衝として栄えたところだという。十五、十六世紀の教会や学校、監獄などの建物が残っており、素朴で親切な村人たちは、ムジークドルフの参加者に山小屋を提供したり、郷土料理のパーティーを開くなど、心から歓迎してくれていた。

ハンガリー出身で、当時アメリカに住んでおられたシェベック先生は、三週間にわたって一人で三十人近い受講者を指導された。そして、先生の音楽を信奉する多くの聴講者が世界各地から集まって村内の山小屋に分宿し、中央広場に面した小学校の建物で行われるレッスンを聴講した。

何人もの先生が別々に教える一般的な夏期講習とは違い、全員がシェベック先生の音楽と指導法に注目しながら、彼を通じて音楽の本質を学ぼうとしているのだった。シェベック教授の傑出した指導力と村の全面的な協力、さらに、雄大なアルプスの山々に囲まれた大自然が、このユニークなサマーコースの存在を可能にしているのだと、私は痛感した。

何年かエルネンを訪れるうち、私は「俺もこのようなコースを開くことができないだろうか」と大それたことを考え始めた。当時はスイスと日本の往復生活で、生徒を教える機会は少なかったが、そろそろ後輩に自分の経験を伝える場を持ちたいとの望みを抱くようになっていた。そしてその場とは、エルネンのように豊かな自然に恵まれた山あいの村、そこで私が指導者になって何人かの受講者を相手に音楽の心を探しながら学び合う、そんなイメージが頭の中でふくらんでいった。

折もおり、妻の両親が山梨県の大泉に山小屋を建てることになり、そこを拠点に私の構想を実現させてはどうかと提案してくれた。近くには(株)泉郷=当時=が管理する貸別荘が点在しており、受講者が数人ずつ分宿して自炊しながら音楽と取り組むという、エルネンとよく似た環境を実現させることができそうだった。一九八五年の一月、出来上がったばかりの土屋山荘を初めて訪ねた時は、大泉に十数センチの雪が積もっていた。私は、雪に足を取られながら家の周りを散歩した。あたりはシーンと静まりかえり、なんの物音もない。「おーい」と叫ぶと、遠くからこだまが返ってきた。「この静けさと大自然の中でサマーコースができるのか」と、私はわくわくするような興奮を覚えた。

この年は、一月から五月まで、当時ヨーロッパの拠点としていたロンドンで過ごすことが決まっていたため、会社との種々の折衝やパンフレット作りなどは私の母と土屋の両親に手伝ってもらい、出来上がったチラシを全国の音大やオーケストラなどに送って参加者を募集した。初めてのことでどの程度の反響があるか不安だったが、受講者十二名と、数名の聴講者が申し込んできた。その中には、首都圏だけでなく名古屋、大阪、仙台、松山などからの受講希望もあった。七月三十一日朝、参加者全員をレッスン場の山荘に迎えて、いよいよ「和波たかよし八ケ岳サマーコース」が開幕した。

和波たかよし