音と歩いた道7「思い出の演奏 」(2005/3/17)

八ケ岳サマーコースの期間中には、二回のコンサートを開いた。受講者にはレッスンだけでなく、音楽による聴き手との生きたコミュニケーションを体験してほしかったし、別荘地の避暑客や地元の愛好家の方々にも、私たちの演奏を味わっていただきたいと考えたのだ。会場は別荘地内のコミュニティーホールを使ったが、これが建物の二階だったため、どういう訳か下からすごい熱気が立ち上ってきてうだるような暑さだった。数年後に冷房が設置されるまで、お客さまから「ただでサウナに入れていただいたようでした」などと皮肉を言われながらのコンサートだったが、それでも毎回足を運んでくださる熱心なお客さまが次第に増えていった。

コンサートの一つは、妻のピアニスト、土屋美寧子と私が演奏する「名曲の夕べ」、もう一つはコース参加者を中心に、私たちも加わる締めくくりの「ヴァラエティーコンサート」である。このヴァラエティーコンサートでは、私が司会役を務めて一人一人出演者を紹介するのだが、彼らがレッスンでの私のアドバイスをどんなふうに消化して発表するのか、半ばどきどきしながら演奏に耳を傾けるのは、心楽しい時間である。

参加者の中から次第に私たちと共演できる人材が現れ、「名曲の夕べ」ではそうした若手も加えた室内楽を取り上げるようになった。また一九九一年には、受講者を中心とした弦楽合奏団、「いずみごうフェスティヴァルオーケストラ」を結成し、何度か八ケ岳で演奏したほか、東京のサントリーホールでデビューコンサートを開いたり、ライブCDが発売されるなど、マスコミの注目を集めた。私はバイオリンを弾きながら指揮を執り、自分が若いころに学んだ「弦楽合奏の楽しさ」を後輩たちに伝えようと奮闘したが、美しいハーモニーを目指して協力し合える若い仲間の存在は、私の心と技を磨く上で実に大きな刺激となった。

サマーコースが回を重ねるにつれ、山梨県内にさまざまなお知り合いが増えたのも嬉(うれ)しいことだった。一九九一年には「南アルプス倶楽部」という山の仲間から、「自分たちが開いている『谷間のコンサート』に出演しませんか」と誘われた。だがこれは、ただ弾きに行けば良いというものではなかった。前日に北岳へ一緒に登り、山小屋に一泊して皆と交流を深める中で演奏を聴きたい、との話だった。

仕掛け人は、私が所属している梶本音楽事務所で、当時副社長だった藪田益資(やぶたますもと)氏。「雪を触りに行きましょう」と彼に誘われて、十数人と共に広河原の山小屋からおよそ二時間、大樺沢の二俣の雪渓近くまで登ったが、安全な場所に足を移動させながらの山歩きは骨の折れるものだった。初心者は妻と私だけ、あとは平地を歩くようにらくらくと登り下りする人たちである。私たちを囲むようにして気遣いながら、周りの花々や植物のことなど、親切に説明してくださるのだった。下りでは二度ほど尻もちをついたが、実際に雪にふれたときの達成感や爽快(そうかい)感、せせらぎを聴きながら味わった流しそうめんの味は忘れられない。

このとき私たちを甲府まで迎えに来て何くれとなく面倒を見てくださったのが、藪田氏の山の仲間であり、後に山梨放送社長となられた高室陽二郎氏である。高室氏は、私の活動をもっと山梨の人たちに知らしめたいと考えてくださり、それが三年後の大きなイベントへと繋(つな)がった。甲府で行われたイギリスのオーケストラ、アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズの演奏会にソリストとして招いていただいたのである。このオーケストラの指揮者、ネヴィル・マリナー氏は、来日の折、私との協演を望んでくださったが、その初顔合わせの場が甲府となった。

響きの美しい県民文化ホールでの演奏会は、素晴らしい経験だった。オーケストラの一人一人が語りかけてくるように伸びやかな歌を聴かせ、私も心地よい世界を楽しみながら無心で弾いた。曲が終わった後の大きな拍手は、客席だけでなく、団員の間からもわき上がって私を包み込んだ。当時私がヨーロッパの拠点にし、「第二のふるさと」と呼べるほど強い愛着を抱いていたロンドンのオーケストラとの協演が甲府で実現したのだ。数多くのコンサートの記憶の中でも、これは最も鮮やかで幸福なものとして、今もくっきりと私の心に残っている。

和波たかよし