二十一世紀を迎えた今も、私は毎夏大泉へ出かける。「八ケ岳サマーコース」は、当初の二倍近い十一日間となり、六年前からは「ピアニストのための短期セミナー」も開いている。これは、ピアニストがほかの楽器と共演する楽しさを体験し、その際に心すべきことを学んでもらう目的で、私が受講者と共演し土屋美寧子が教えるという形でレッスンを行う。
ここには、「音大を卒業してから、ソロだけでなく室内楽も勉強して視野を広げたくなった」と言う人の参加が多く、学生中心のサマーコース本体とはレッスンの雰囲気がひと味違う。私は、ベートーヴェンやブラームスなど、受講者が練習してきたソナタを次々弾きながら、時には共演者としてのアドバイスを与える。同じ曲でも、ピアノの立場からの音楽作りにかかわることで私自身の研究も深まるし、なによりも、素晴らしい作品を演奏しながらより良い音楽を追究する時間は限りなく楽しい。
三年ほど前のこと、ヴァラエティーコンサートを終えて帰り支度をしていると、「みんなから先生にプレゼントがあるのでホールへ戻ってください」と呼ばれた。美寧子と行ってみると、参加者全員が席に着いて私たちを最前列に座らせ、代表四人がアメリカの作曲家、マクダウエルの愛らしい小品「野バラに」を弦楽四重奏に編曲して弾いてくれた。「なんとしゃれたことを」と感心しながら、私は思わず目頭が熱くなった。皆が音楽の心を大事にしている。日ごろから伝えたいと考えていることが彼らにしっかり受け継がれつつあるのを実感した、幸福な瞬間だった。
初めのうち、受講者たちは「自分が練習したりレッスンを受けるだけでなく、ほかの人の演奏からも学んでほしい」と、聴講するように促してもなかなか聴きに来ず、私をいらいらさせた。しかし今では、それを口うるさく言わなくても、皆積極的にレッスン場を訪れて聴くようになった。毎年参加者は少しずつ入れ替わってゆくのに、「サマーコース精神」はしっかりと受け継がれている。これが「歴史」なのだろう。
去年、サマーコースに大きな転機が訪れた。(株)泉郷を買収したセラヴィリゾートという会社の新方針で、別荘地の再開発が始まったのだ。コンサート会場だったプラザ・フォレオがバイキングレストランに様変わりし、演奏会が開けなくなったため、私たちは大きな壁に突き当たった。社長を名古屋に訪ねて、「なんとかコンサートをやらせてほしい」と訴えると、すぐさま「高根町のホールでやりましょう」と答えが返ってきて、びっくりした。一カ月前の変更など、私の常識では考えられないことだったが、そのための費用や参加者のバスによる移動など、すべて会社側が引き受けてくれ、コンサートは支障なく行われた。社長のひらめきのおかげで、響きの素晴らしいホールでの演奏が実現した上、これまでより多くの地元の方々に聴いていただくこともできた。八ケ岳の夏のコンサートに新たな展望が開けた。そして今年は、北杜市の後援もいただいて、高根と長坂で夏のコンサートを開くことが決まった。
二十年前とは違って、今は八ケ岳に似たサマーコースが各地で行われている。だが、泉郷に集まる人たちは、ほかのどこにもない独特の雰囲気を感じ、そこで勉強したいと考えて出かけてくるのだ。その「ほかにないもの」は、八ケ岳の雄大な自然に育(はぐく)まれながら、私とその生き方に共感してくれる人たちの手で作り上げたものだ。サマーコースを維持するには、私自身のエネルギーとともに、周囲の人々の理解と協力を得ることが欠かせない。これまでの積み重ねを瓦解させないためにも、私は自分の音楽に対する愛情を注ぎ込んで、できる限り長く続けていきたいと思う。コンサートが泉郷の外で行われるようになったのを機に、いっそう多くの地元の方々が、私たちの演奏を通じて音楽の素晴らしさを体験してくださることを心から願っている。
四月一日に、私は六十歳になる。その日、東京のサントリーホールで記念のバースデーコンサートを開き、「いずみごうフェスティヴァルオーケストラ」と協演する。夏には二十回記念の「八ケ岳サマーコース」もある。「音と歩いてきた道」は、まだ先へと続いている。この私だけの道を、これからも一歩一歩踏みしめながら進んでいきたいものである。(おわり)