海軍中将だった私の祖父は、1975年の1月2日に、満91才で帰らぬ人となった。私が29才、今から43年前のことである。
祖父は、元日に家族が集って正月を祝う席で、食事が終わるころになると、必ず前年の元日の日記と、それに続けて書かれた彼の年頭所感、さらに2年前の我が家の10大ニュースを読み聞かせた。続いて、全員で「去年の我が家の10大ニュース」を考えて、祖父がノートに書き込むのが仕来りであった。
私は、いつもこの「日記の朗読」を楽しみにし、時には祖父の部屋へ行って、古い日記を読んでもらうこともあった。「おじいちゃんは毎日日記を付けてるんだよ」と話す祖父に、「すごいなあ」と感心したものだ。
私も、夏休みの宿題として日記を書くことはあったが、それ以外で日記を書き始めたのは、社会に出てからの21才のころだった。そして、結婚後の1979年からは」毎日日記を書こう」と決意し、旅行先でも点字板を使ってまめに日記をつけていた。90年代になると、点字の電子手帳を持ち歩いて、暇を見つけては書いていた。電子日記だと、後から検索してすぐに欲しい情報にたどり着くので、メモ代わりとしても大変便利だ。
2010年代になると、日記はあちこち櫛の歯が抜けたような状態となったが、2年前からは、休まずにつける習慣を取り戻すことができた。いったい誰のために書いているのかわからないが、おそらくこれは自分のために書いているのだろう。「今週は何をした」とか「1ヶ月前の今日はどんな日であった」といった情報がないと、なんだかちゃんと生きている気がしないのである。若いころは、記憶が良かったので日記を書かなくてもけっこう昔のことをよく覚えていたが、今は数日前のことでも記憶が曖昧になる。だから、なんとかして書き残そうとするのだ。おかしな性分である。
今年は、祖父の真似をして「念頭所感」を書こうとずっと考えていた。少し時間が経ちすぎたが、ここから書いてみることにする。
とにかく、今年は気掛かりだらけの新春である。中でも心配なのは、次々に起こる荒っぽい自然現象だ。3日の夕方の熊本の地震にはびっくりしたし、一昨日は大雪で新千歳空港が麻痺状態になった。去年巻き起こった数々の自然災害は、日本にも世界にも痛々しい爪痕を残した。
地震や火山の噴火は、地球温暖化とは関わりがないかもしれない。気象の異変も、温室効果ガスのせいではないと主張する人達もいる。だが私は、こうしたすべての災害が、地球の神の怒りのように思えてならない。もっと人間は、この星に住まわせてもらっていることに対して、謙虚になるべきではないだろうか。
それなのに、人々は自分の幸せや、快適さばかりを追い求める。人の財産を奪ってでも幸せな生活を手に入れようとする輩が後を絶たない。なぜこんなことになってしまったのだろう。
荒っぽいのは、自然現象だけではなく、社会や国際問題においても、まことに物騒である。その元凶は、なんと言ってもアメリカのドナルド・トランプ大統領であろう。だが、そのトランプ氏と仲睦まじいこの国の首相も、かなり物騒な人である。
韓国のレーザー照射に対して声高に抗議したのは、安倍首相の指示だったと聞く。もっと穏便に処理し、隣の国との揉め事を大きくしない努力をすべきなのに、彼は国民の生命や財産を守っていないと、私は思う。
安倍氏の前の首相も、尖閣諸島を国有化して、日中関係をこじらせた。残念ながら、私たちの周りの国々の指導者は、何かと言えば日本と揉め事を起こすのがお好きと見えるが、それに調子を合わせてどうなるというのだろう。
日本は、周りの国々を「平和」や「融和」の方向へ引っ張る役割を果たさなければいけないはずなのに、それとは逆のことをやって、国内外のナショナリストたちを元気づかせている。これでは、国民の生命や財産は守れないし、平和はやってこない。
私たちが戦わねばならない相手は他国や他民族ではなく、襲いかかってくる温暖化や地震、津波などの災害、人々に危害を与える大気汚染などの人災に大してであるはずなのだ。そのために、まず世界の人類が平和に仲良く生きて行く基礎を築くこと、それが指導者の使命であるはずなのだ。
世界が不安定になったら、私たちはもう錐揉み状態だ。一人の小さな力など、なんの役にも立たない。それでも、私はたとえ錐揉みになっても、美しい音楽を奏で続けたい。そして、「平和や融和こそ大切なのだ」と音楽を通じて訴え続けたい。
そのような自分であるために、今年の私のモットーは「自信を持って自分を貫くこと」だ。これは、世田谷八幡神社のおみくじに書かれていた言葉だが、まさにそれが今の私に必要なのだと思う。
私は、外に対してはけっこう自信有りげに振る舞っているかもしれないが、自分の内面に向かっては、全く自信がない。目が見えないことで劣等感を持ち、いつも何かに怯えている、それが私の本質なのだ。
だが、もうそろそろよいではないか!ここまで人生を生きてきてしまったのだ。「お前はよくやっているよ」と自分を褒め、楽しく生きて行けるように心を開放してもよいはずだ。いじけていたら、残りの人生がもったいない。自分に対して自信を持つことで、他者には優しくなれるはずだ。そんな自分を見つけたい。
自分でも努力し、神仏にもお願いして、もっと自信を持って堂々と生きる自分になりたい。これが、今年の年頭所感である。
年頭所感
2019年1月7日