いざ松本へ

2018年8月23日

長い準備期間を経て7月29日に幕を開けた今年の「八ヶ岳サマーコース&コンサート」は、とにかく参加した人たちになにかプラスになるものを持ち帰って欲しいとの一心から、頭と体をフル回転させて働いて、8月9日に無事全日程を終了した。妻で共同主宰者の土屋美寧子をはじめ、アシスタントの田島君、林さん、そして初めてサマーコースの伴奏を務めてくれたピアニストの藤本さんなど、皆の献身的な協力によって、一人の脱落者もなく、全員元気で最後の日を迎えることができたのは、何よりも嬉しいことだった。最終日のコンサートは台風の接近が心配されたが、山梨県西武は天気の崩れもなく、受講者たちは精一杯の演奏でフィナーレを飾ってくれた。
 サマーコースの後、私は八ヶ岳の山荘で4日間の休みを取り、14日に帰京したが、サイトウ・キネン・オーケストラで演奏する2曲のシンフォニーの勉強に追われて、なかなか疲れの取れない日が続いた。今年の「セイジ・オザワ・フェスティバル」は、残念ながら小澤さんが指揮を降板したため、プログラムが大幅に変更され、私は予定していた3回のコンサートへの出演が困難になってしまった。当初は、ベートーヴェンの「運命」を3日とも小澤さんが指揮することになっていたが、各回が全く別々の曲になったため、それらをすべて暗譜するのは、負担が大きすぎると判断した。
 事務局も事情をわかってくれ、相談の結果、オープニングのコンサートだけに乗ることにしたのである。こんな勝手な参加の仕方を認め、「1回でもよいから乗ってください」と誘ってくれた事務局には、感謝の気持ちでいっぱいである。
 今回演奏するのは、プロコフィエフの「古典交響曲」とチャイコフスキーの「交響曲第5番」、いずれも過去に演奏の経験があるが、最近は暗譜力が衰えていて、いつまでたっても全部の音と弓使いが頭の中に収まってくれない。懸命に暗譜を試みた後は、夜中によく眠れなかったりするので、全く始末が悪い。それでも、とにかくやれるだけのことはやった。後は今日からのリハーサルで、あやふやなところを少しでも解消し、日曜日の本番を迎えることに集中するしかない。
 2002年ごろ、私はサイトウ・キネン・オーケストラから引退しようかと真剣に考えていた。少しずつ暗譜が辛くなっていたし、なにも私が無理をしなくても、このオーケストラは続いて行くのだから、と思っていた。ところが、そこへ弟子の田島高宏君が入ってきた。私は、彼と並んで演奏する「指定共演」に新たな夢を持った。折しも、2003年には「是非一度弾いてみたい」と思っていたブルックナーの交響曲が演奏されることになったため、一念発起してこの大曲を暗譜し、田島君の隣で演奏した。このシンフォニーのCDは、今も私の大切な宝物である。
 その後も、マーラーの1番やショスタコーヴィチの5番、ベルリオーズの「幻想」などの大曲を小澤さんの指揮で演奏、また2005年には、大好きなチャイコフスキーの5番を、ロストロポーヴィチの指揮で演奏するという幸福な経験にも恵まれた。
 気が付いてみると、周りのメンバーがどんどん若返っていた。同年代の参加が少しずつ減って行く中で、私は自分が弾き続けることに新しい意味を感じるようになってきた。「サイトウ・キネンは、普通のオーケストラではない。普段はあまりオケを弾いていないソリストや、私のような人間も加わった、齋藤秀雄先生から繋がった特別なオーケストラなのだ。だから、自分の体力と気力が続く限り、このオーケストラの仕事を続けるのが自分の天命だ」と、少し大げさに考えて毎年松本へ来るようにしている。
 桐朋学園大学の門を叩いた私を、他の学生と別け隔てすることなくオーケストラに迎え入れて下さった齋藤先生への感謝を胸に、今私は松本へ向かっている。列車は間もなく交付に到着する。サマーコースの時に下車した小淵沢を通り過ぎて、昼過ぎにはたくさんの思い出が待つ松本に着く。そして数時間後には、文化会館のステージに座っていることだろう。たった4日の短い滞在だが、楽しい日々になることを願いながら、スーパーあずさに揺られている私である。