生徒が、あるソリスト・オーディションを受けることになった。その最終選考が近づき、私も遅ればせながらその曲をちょっと練習してみた。実はこれが、私の大好きな曲、たくさんの思い出のある曲なのである。
かつて私も、このコンチェルトで何回かオーディションを受けた。記憶を頼りに古い日記を開いてみたら、チューリヒ室内オーケストラの指揮者、シュトゥッツ氏のオーディションを受けたのが25年ほど前、つまり40才を過ぎてからなおオーディションを受けていたわけだ。その結果、1988年の3月末に、同オーケストラの定期公演のソリストに招かれたのだったが、今日の本題はそれではない。
楽譜を見ながらその曲を弾いていて、前回生徒のレッスンでその人が弾いていたニュアンスに疑問がわいた。そこで、休日なので家で練習しているはずの生徒に電話を入れ、別のニュアンスで試してみて明日のレッスンで聴かせて欲しい、と指示した。生徒にしてみれば「うるさい先生だな」と思うかもしれないが、演奏会やコンクールなど、人の前で演奏を発表する生徒に対しては、レッスンで教える「教師」というよりは、コーチのようなつもりで接するのが、私のやり方である。
演劇には演出家がいて、何度も稽古を重ねながら俳優に指示を与える。演奏にも、演出家のような役割の人間が必要だと、私は考えている。もちろん、ある年代を過ぎて自立した音楽家は、自分の責任で演奏を作って行けばよいが、少なくとも学生のうちは、信頼できる人のコーチを受けることが大切だと思う。時々「先生の解釈を生徒に押しつけてはいけない」と言われるが、あながちそうとは限らないのではないか、というのが私の意見である。こちらがクリアーなイメージを生徒に示すことで、生徒はある方向性を持って、安心して演奏に臨めるはずだ。あまり若いうちからその生徒の個性に任せてしまうと、生徒はどうしてよいかわからなくなるのではなかろうか。その結果、ユーチューブなどでいろいろな情報を集め、耳で誰かの演奏を真似するといった弊害も起きてしまうのである。それぞれの作品を私がどう考えているか、基本的なことをしっかり伝えた上で、その生徒が自立してから、そこに自分のアイディアを加えるなり、別の先生のアドバイスと混ぜ合わせるなり、自分の好みの方法で発展させていってくれれば良いのだ。
コーチといっても、ああしろこうしろと命令するのではない。どうしたらその生徒らしい音楽になるかを考え、本人とも相談しながら、音楽作りの手伝いをする、それが理想だ。日本の生徒には、まだまだ先生との間に厚い壁を作り、その中に閉じこもってしまう人が少なくない。だから、自我の強い生徒は、こちらがレッスンで次々に注意を与えると、自分が否定されたと思い込んで、余計に閉じこもってしまう。だが、注意を与えるのは、否定していることとは違う。別の可能性があることを伝え、生徒の演奏をさらに広げて行くための材料を提供しているのだ。そのように物事を肯定的、かつ建設的に受け止めてくれる生徒が、一番教えやすいし楽しい。今日私が電話をかけたのは、そのような生徒の一人だ。
ちょうどこの「日記ページ」を開設した直後、一人の中学生がかなり大規模なソリスト・オーディションの合格圏内にあり、私は大きな期待を持って最終選考に送り出した。ところが、突発的な理由で出場を辞退してしまい、ひどく落胆したことがあった。今回はどんな結果になるか、朗報を期待しつつ成り行きを見守っている。