いわゆる「三が日」が終わりました。今日が日曜日でしたから、明日が仕事始めという方も多いことでしょう。
私は、22年ぶりに海外でこの期間を過ごしています。海外での正月は、過去に4回経験していますが、1983年はスイスのバーゼル郊外に借りていた家で、1986年と88年、それに89年は、いずれもロンドンの家で静かに過ごしたので、今年のように旅行しながらの正月となると、海外では初めて、国内でも学生時代以来のことになります。なのでどうも正月だという実感がわかないのですが、でも正月であることに間違いはありませんね。
元日はベルリンで、ゆっくり朝食を食べたあと、テレビでウィーンフィルを鑑賞。午後から散歩に行き、夜は宗教音楽のコンサートを聴きました。古楽器と合唱による素晴らしい演奏で、まさに最高の元日となりました。
2日は、早起きしてスイスのチューリヒへ移動。さらに列車で1時間40分かけて、ブラームスも滞在したことで知られるトゥーンの町を訪れました。ここは、私がヨーロッパで最も親しくし、長いこと世話になってきた友人、クラウディウス・シャウフラーさん夫妻が住んでいる町なのです。
私が彼らと知り合った1973年当時、彼らはバーゼルに住んでいました。1978年に、結婚直後の私が、バーゼルをヨーロッパの拠点と定めて住み始めたのは、彼らのいる町だったという理由もあったほどです。スイスに拠点を持った5年間は、私にとって最も思い出の深い期間だったと言えます。仕事の面では、もっと動きのある場所にいた方が良かったのかもしれませんが、自分の音楽を考えたり、美寧子との夫婦の絆を深めることのできた貴重な時だった、と思っています。
トゥーンの町の中心にあるホテルに入って、まず感じたのは「なんて静かなんだろう」ということでした。車の入ってこない庭側に面した部屋だったこともありますが、エアコンはスチームだし、冷蔵庫はないし、外からの物音も聞こえないし、ああ、これこそスイスの静けさだと、懐かしさでいっぱいになりました。余分な話ですが、バーゼルで借りていた家の冷蔵庫は、よく冷えましたが、モーター音はほとんど聞こえない実に静かな機械でした。
ことほどさように、スイス、特にスイスのドイツ語地域の人たちは静けさを好むようです。そしてその静けさこそ、私がいつも懐かしく思い出していたもの、その中に再び身を置きたいと願ってきたものだったのです。「2日の滞在では余りにも短い」と思いつつ、それでも8年ぶりにスイスへ戻ってこられた喜びに、胸が震えるほどの感動を覚えました。
静かな環境に身を置くだけなら、防音室でもよいはずなのに、いったい何が違うのでしょう。日本にいる私の心は、いつもなぜか波立っていて、心底から落ち着くということがないような気がします。このスイスの静けさと、ゆったりした時間の流れに身を置いて、本当の安らぎが得られるように思うのです。でも、現実は、あと3日で日本へ帰らなければいけないわけですから、日本にいても落ち着いた心を取り戻し、自分の周りに静かでゆったりした空間を作り出す努力をしなければならないだろうと思います。日本が忙しいからと、周りのせいにして、スイスのような静かなところに住めない自分を嘆いていても、なにも始まらないでしょう。今回、ここに来られただけでも幸せなんだ、と思うことにしましょう。
ところで、クラウディウス・シャウフラーという人は、自身がピアノやオルガンの奏者だっただけでなく、いくつかの町でコンサート主催者のような仕事をしていました。町の依頼を受けて、演奏家の選定などを行うといった仕事です。初めて彼と知り合ったのは、バーゼルに近いドイツの町、ヴァイル・アム・ラインでのコンサートに私を招いてくれた時でした。その後、彼は私の音楽の素晴らしい理解者となり、20数年にわたって、何回もコンサートに招いてくれたり、一緒に演奏したりしました。しかし、世紀が変わった頃からはそうしたこともなくなり、そして去年の2月、クラウディウスは90才で息を引き取りました。
今回は、彼のお墓参りと、75才になるヘルガ夫人を慰めるための訪問だったのです。ヘルガは元気そうでしたが、彼の最後の頃は、やはり介護が大変だったと語っていました。その後遺症で、両肩には痛みがあると言っていましたが、ともかく元気で、比較的明るく暮らしていることには、救われる思いをしました。
2年前、彼がラジオのインタビューに応じ、50分にわたって自分の戦争体験や人生観を語った番組が放送され、その録音を聴かせてもらいました。原稿など一切書かず、即席で話したとのことですが、発音はクリアで、話しぶりも生き生きとしており、まるでそこに彼がいて私たちに語りかけているような錯覚を覚え、私はしばらくの間身動きもできないほどの感動に打たれていました。もっと彼と話したかった、もっとありがとうを言っておきたかった、そうした思いもこみあげてきましたが、もうそれは叶わないことなのです。でも、きっと彼は、天国から今の私を見守ってくれていることでしょう。それを信じて、生きて行くしかありません。
今日からはチューリヒに来ていて、今日はバレエを鑑賞、明日は声楽のリサイタルを聴き、6日には帰国の途につきます。日本での忙しい日常に向かう心の準備をして、帰国便に乗ろうと思います。
スイスにて
2015年1月5日