亡き土屋の父を偲んで

2014年11月20日

 2月に母が亡くなったのに続いて、11月12日の未明に美寧子の父、土屋徳芳が永眠した。美寧子の寂しさは当然だが、私にとっても掛け替えのない理解者が、また一人いなくなってしまった。
 7月半ばに脳梗塞で倒れ、回復の見込みがないと聞いていたので、いずれはこの日が来ることを覚悟してはいたが、やはり実際にその瞬間が訪れると、耐え難い悲しみに襲われた。人が亡くなるというのは、本当に悲しいことである。
 義母や義弟、義弟の妻も、この4ヶ月間はつらい日々だったと思う。特に母は、毎日欠かさず病院へ見舞いに行き、話すことができなくなってしまった父に付いて数時間を過ごしていた。お寺の住職が「枕経」を上げに来てくれた時、法名を決めるために父のイメージを知りたいと言い、母に「どんなご主人でしたか」と尋ねると、母は「優しい人でした」と答えた。私たちは「そうなのか」と半ば感心し、半ばほほえましく感じた。父には怒りっぽいところもあったし、母ともよく口喧嘩のようなことをやっていた。小学校の先生だった父が退職した後は、家にいることも多かったから、母はけっこう大変な思いをさせられていたのではないかと想像していた。だが、母にとっての父は「優しい人」だったのだ。
 確かに、義父は子供が大好きで、教え子からも慕われていた。また、私の「若い音楽家を育てたい」という気持ちにも強く共感してくれ、自分が建てた八ヶ岳の別荘を、サマーコースのために貸してくれた。この大恩は、決して忘れることができないし、サマーコースの参加者、一人一人に深い思いやりを持って接してくれていたことにも、感謝の気持ちでいっぱいである。
 サマーコースを始めた頃、彼はよく受講者たちを誘ってテニスをしたり、車に乗せてどこかへ遊びに連れて行ったりしていた。「そんな暇があったら練習する方がよいのに、邪魔をする」と私は時々不機嫌になった。だが、当時の参加者に聞いてみると、「厳しいレッスンを受けて、折れそうになっている気持ちが、お父さんのお陰で楽になった」とか、「音楽家とは違う立場でいろいろ話してくれ、良い気分転換になった」といった感謝の声ばかりが帰ってきた。してみると、義父が八ヶ岳に来ていた2005年までの参加者は、幸せだったということになりそうだ。
 確かに、サマーコースにはいつもどこか家族的で、和やかな雰囲気があった。「八ヶ岳ファミリー」という言葉ができ、参加者たちは、別れ別れになった後も親しい付き合いを続けているケースが少なくない。その雰囲気は、まさに義父が作ってくれたものであった。そして、それらすべてが私への素晴らしい贈り物として残ったのである。
 義父は、美寧子や私の東京での演奏会には必ず足を運び、そして私たちの音楽を心から喜んでくれていた。もっともっと演奏を聴いてもらいたかったが、もうその望みは絶たれてしまった。だが、考えてみると、私がこの世界にいられる時間も、もうそれほど長くはないのだ。あちらへ行った母や、土屋の父に再会する日も遠くはない。それだけに、残りの日々を、そして残りの時間を大切にし、精一杯楽しく生きると共に、一人でも多くの人の役に立つ仕事をしなければならないと、改めて強く思う。
 今年は、寂しい年末になる。この喪失感をじっくりと味わいながら、今年最後の演奏となる「バッハシリーズ」では、今の自分の思いの丈を、そして亡くなった親たちへの感謝の気持ちを、包み隠さず表現したいと思っている。