何かを伝えるために

2011年4月8日

毎日ヴァイオリンの練習を始める時、私はまずD線の開放弦をゆっくりした弓で弾く。いわゆる「ボウイング練習」だが、普通はA線から始める人が多いようである。私の恩師、江藤俊哉先生は、「D線の方が低くて落ち着いた音だから、練習には良いのだよ」と言っておられた。16才の頃身に付けた習慣を、今も私は頑なに守っている。

D線から始めて、すべての弦で良い音が出ているかをチェックする。弓の場所によって音色が変わったり、根本で返す時に力が入ったりしないように、耳を澄ませて聴きながら弾いて行く。これは、ヴァイオリンに向かって自分を集中させる、精神統一の意味も兼ねた練習だ。次は、左手の指の練習。これもD線から始め、人差し指から小指まで順番に押さえ、それを弦から1本ずつ離して行く。指を弦に下ろす時は、指板を軽くたたくので右手をスラーにしていても音を明確に発音できるが、逆に指を離す時は、音の変わり方が不明確になることがある。江藤先生は、「押さえる時も離す時も、同じ音がするように」と注意して下さっていた。音階練習でも、これは私が大変大事にしているポイントである。

江藤先生が亡くなられて、3年が過ぎた。アメリカ人の奥様は母国へ帰られ、江藤先生が話題に上ることは少なくなったようだ。だが私は、ヴァイオリニストとして、また指導者としての江藤先生を、今も深く尊敬している。弟子だった当時は時々反発を感じることもあったが、それは先生が折々に見せる弟子への高圧的な態度や、先生の頭の回転が余りにも速くて、こちらが付いて行けないための反発であったと思う。先生が教えてくださることにはいつも深く共感していたし、特に運弓法や運指法、音の出し方については、私は先生という素晴らしいフィルターを通すことで成長できたと考えている。曲によって、またその各部分によって、弓の圧力やヴィブラートの速度など、先生の指示は非情に細かかったが、私の音を聴きながら次々に出されるそれらの詩的は、いつも的を射たものだった。その指示に答えようと努力することで、私はさまざまな発見をし、自分の弾き方を磨くことができたのだ。先生のレッスンを受けなくなってからは、自分自身の耳がそのフィルターの役を果たさなければいけないと考えてやってきた。

もう一つ、江藤先生のレッスンが素晴らしかったのは、いつもピアノ伴奏を弾いてくださったこと。これにより、私は自分の弾いている音の背景にある和音を意識することを学んだし、先生のピアノが発する音のメッセージを受け取って自分の音楽を作っていく楽しみも味わった。だから私は、その真似をして生徒のレッスンでよく伴奏を弾く。即興で下手な伴奏をするから、生徒にとっては迷惑かもしれないが、それによって「和音の感覚」や「音による対話」を体験してもらえればと思ってやっているのだ。

江藤先生はとても厳しく、怖いと感じることも多かったが、先生から得たものは計り知れない。良い師に恵まれたことを幸せに思い、私も生徒たちにそう感じてもらえるようなレッスンがをしたいと願って教えている。私は、江藤先生ほどてきぱきとできないし、時々文句を言いすぎる欠点もある。それを直そうとしても、なかなか思うようにいかないのだが、恩師から伝えられたヴァイオリンという楽器の魅力、その素晴らしさだけはしっかりと伝えていきたいと考えている。

来週、私は19年ぶりとなるバッハの無伴奏のCD録音を行う。今月に2日、6月に2日、合計4日で全曲を収録する計画だ。当初は相模湖交流センターで録音する予定だったが、計画停電があるかもしれないというので、急遽会場を津市の文化会館に変更した。今日になって「停電はない」と発表があり、「場所を移動するための経済的、時間的な負担をどうしてくれるんだ」と怒り狂いたい気持ちだ。だがこれは、おそらく「三重の方が良い仕事ができるよ」という音楽の神様の思し召しに違いない。津の文化会館は16年ぶりだが、とても素晴らしいホールとの印象を持っている。その場所で、思う存分ヴァイオリンの音を響かせることに集中しよう。そして、何かを後に伝えられるバッハを、ここまで歩んでこられた感謝や喜びを込めて表現したいと思っている。