余裕を持って

2016年6月3日

 長野県の富士見町で、土屋美寧子がプロデュースする年間3回のコンサートがスタートした。まず、4月3日に美寧子自身がソロのリサイタルを行い、私も聴きに行って、心温かな皆さんと交流を深め、親密な雰囲気の中でのコンサートを楽しんだ。開場から見える周りの景色も絶景なのだそうで、見えない私にも、何か自然の潤いのようなものに包まれる喜びを感じる時間だった。
 明日は、美寧子とのデュオなので、潤いを楽しんでいる余裕があるかどうかわからないが、聴いてくださる皆様には、極上の時を過ごしていただけるよう、真に迫った演奏をお届けしたいと意気込んでいる。
 ところで、最近の私はあまり気持ちの休まることがない。暗譜しなければならない曲が多いのが、たぶん最大の理由だと思うが、雑用を捌く能率が少しずつ落ちてきている感じがするし、疲れやすくなったのも事実だ。疲れは、翌朝には取れているのだが、夜になるとまた疲れる。「年齢から言って当たり前だろう」と言われそうだし、私もそう自覚している。ただ、もう少しゆったりテレビを楽しんだり、本を読んだりする時間が欲しい。
 だが、今年はかなり難しそうだ。8月末にオザワフェスティバルが終わるまでは、とにかくしゃにむに走るしかない。その後少し休息を取り、次は岩崎洸さんとの一連のトリオの演奏会。そして、12月の「藝大アーツスペシャル」や恒例のバッハシリーズと、続いて行く。レッスンも比較的多いし、良い体調を維持して頑張らなければならない。ここ数年、ずっと暇をぼやいていた私に、神はこんな時間を下さったのだ。有り難く受けて、前進するしかない。
 先日、私が点字毎日に執筆しているコラムが40年を迎えたということで、編集長の取材を受けた。とても楽しい記事が掲載されたのだが、そこに描かれた私は、音楽をこよなく愛し、楽しみ、絶えず他人への気配りを忘れない好人物だった。だが、実際の私は、いつもそんなに楽しくしているわけではない。音楽をやることだって、勿論大きく言えば「楽しい」となるだろうが、日々の練習は楽しいばかりではないし、なかなか思うような音が出せなくて落ち込むことも少なくない。
 だが、他人から「楽しい人」に見えているのは、やはり有り難いことだ。暗く見えてしまったら、私という人間は救いようのない存在となる。そういうことにならないよう、いつも一定の余裕を持って暮らして行きたいものである。その余裕こそが、聴いて下さるお客様との親密な心の交流を生み出すエネルギーとなるに違いない。明日は、自分が弾くだけでなく、南アルプスの空気を精一杯楽しんでこよう。