叙勲の後で思うこと

2015年5月17日

 いつもいつも、書きたいことは山ほどあるのだが、日々の生活に追われてなかなかブログが更新できない。それを考えると、少々フラストレーションが起きてしまうのだが、現状を受け入れるしかなさそうだ。
 70歳の記念演奏会から、もう1ヶ月が過ぎた。あの演奏会を計画し、無事に終えるまでのことを書き綴ったら、1冊の本になってしまうほど、私の心にはいろいろな思いが去来した。前へ進む思い、それにブレーキをかける思い、そうした重いとは関係なく動いて行くさまざまな事実、それを受け入れつつ、自分を最高の状態にして本番を迎えようとする努力、そしてすべてが終わった後の今の気持ち。簡単に言ってしまえば「めでたしめでたし」なのだが、これに関わってくれた実に多くの人たちへの感謝は、日を追うに従って私の中で膨らんでいる。それらの方々に、まだ十分のお礼ができていないかもしれない。
 それでも私は、夏や秋の仕事に向けて、進んで行かなければならない。いくつかの楽しみなコンサートが控えているが、それを成功させるためには、数曲を暗譜しなければならない。「疲れた」などと言ってはいられないのだが、通常の練習と違って、暗譜は疲れていると捗らない。「まだあのコンサートの後遺症が残っているのだな」と、譜面を読みながら感じてしまう。それに甘えている自分にも、腹が立ってくる。だが、いらいらしたってなにも良くはならない。落ち着いて、毎日を朗らかに、そして楽しく暮らしながら、次の課題に立ち向かうエネルギーを蓄えるしかない。今は、そんな進境である。
 ところで、3日前に「旭日小綬章」という勲章を伝達された。国立劇場と皇居に赴き、天皇陛下にも拝謁した。光栄なことである。
 ただ、人数が余りにも多かったため、10年前の紫綬褒章の時のように、車椅子の方々と共に皇居の宮殿へ先に入場できるなど、障害者としての私への配慮は全くなかった。前回も、こちらからお願いしたわけではなかったが、そのような待遇を受け、幸運にも、天皇陛下から直接お声をかけていただいたのだった。
 もっとも、今回は70歳を超えた方々が、何分も立ったまま待つことになったり、暑い日差しの中で整列して待つなど、ご苦労をされていた。その経験が共有できたのは、優遇されるよりむしろ良かったと思う。得がたい、貴重な経験であった。
 勲章をいただくということは、私にとってどういうことだろうか。これまで私がやってきたことを、社会的に認めていただけたという点では、これほど大きな喜びはない。クラシックの演奏家は、日本の社会全体から見れば本当の一握り、いや、それにも満たない小さな存在である。だが私は、クラシック音楽こそ、空気や水にも匹敵する、生きて行くための大切な要素だと信じている。その音楽の道を歩き続けてきたことを社会的に認めていただけたのだから、これほど嬉しいことはない。
 ただ、これはたとえば、選考委員が私のコンサートを聴いて評価してくれた、といった種類の章ではない。いったい今の自分の演奏家としての力量はどうなのだろうか、それを問おうとしたのが、「70歳記念演奏会」だった。
 今回は、60才のバースデーコンサートより、体力と精神力を要求される曲にチャレンジした。だが、美寧子は「あの時の方が疲れていたように見えた」と言った。今回は、楽屋でもある程度余裕のある様子だったと言っていた。確かに、今回は3日連続のリハーサルを前にして、あまり疲労が貯まりすぎないようにペース配分を考えたり、精神的パニックに陥らないように自己コントロールを心がけたりして、本番に臨んだ。
 しかし、それでも最後のベートーヴェンは、必要以上に緊張し、最初が思ったように弾けなかった。録音を聴き直すと、「これが今の俺の実力なのか」と、現実を前に沈んだ気持ちになってしまう。それでもベートーヴェンは、自分で「まあ敢闘賞ものだな」と納得できる演奏にはなっている。だが、モーツァルトには納得できない。部屋で録音して音の出し方や表情を研究するなど、十分な準備をしたはずだったのに、自分の目指すモーツァルトとはかなり違うものになってしまった。たぶん、ホールの響きの良さについ調子に乗って、自分でやってはいけないと誓っていたはずの過剰なヴィブラートをかけてしまった。だが結局、これも実力のうちなのだろう。
 この日のライブCDが、完成に近づいている。1回で終わってしまうコンサートとは違い、何度も繰り返し聴かれるCDとして、果たしてこれが鑑賞に堪えうるものかどうか、よくわからない。だが、それでも私は、今の自分をさらけ出すことを決めた。たとえ批判されても、覚悟はできている。そして、もしも多くのリスナーの方が、この男の今の演奏を「友」として側に置いてくださるなら、これほど幸せなことはないと思っている。
 次の演奏では、もっと自分の目指している音楽に近づくことができるよう、日々の工夫を重ねて行くつもりである。