1月も終わりに近づき、立春まで後1週間となった。寒いのが大嫌いな私だが、2月を乗り越えれば温かい春が来るのだから、もう一息の我慢だ。早く暖かくなって欲しい反面、「あまり時が早く流れて欲しくない」という気持ちもあって、複雑な心境である。
昨日は、高校の同窓会の新年会だった。私の高校は、筑波大学附属視覚特別支援学校と言う。明治時代にできた古い学校で、終戦までは「東京盲学校」という独立した学校だったが、戦後に東京教育大学の付属となった。そうした経緯もあって、未だに東盲(とうもう)の相性で呼ばれている。非常に古い歴史を持つ学校で、今の生徒たちのことはよくわからないが、私が通っていた50年前は、どことなく「古き良き日本」の雰囲気が漂う校風を持っていた。
そのような学校だから、同窓会の集まりには多くの先輩が出席される。最近は、ほとんどの会合で私はいつも年長者になってしまうが、ここでは出席者の約20パーセントが先輩なので、自分が若返ったような気持ちになれる。その新年会に、昨日はゲストとして90才のK先生をお招きし、「東盲を語る」のテーマで話していただいた。
K先生は、1953年から1965年まで体育の教師として勤務され、私も体育を教わった。労働運動に大変熱心な先生で、当時は安保闘争に心血を注いでおられた。根っからの平和主義者である私とは、性格も合わなかったのだが、さらに私がやや肥満していて、運動が全くへたくそだったため、たちまち注目の的になってしまった。
だが、先生の指導は、私の運動能力を向上させはしなかった。なんとか体育に目覚めさせようとのお気持ちだったとは思うが、私は「怖い先生にいじめられている」という意識で受け止め、反発すると共に、自分の殻に閉じこもってしまった。熱心に運動をやらないから、上達もしない。そしてついに、3年の1学期に、先生は私に落第点を付けたのだった。
そんな時、私が優勝を目指して挑戦していた「日本音楽コンクール」の第2予選が学校の体育祭と重なり、私は当然欠席して必要な単位が取れなくなってしまった。このままでは卒業できないかもしれない、という危機的な状況だったが、幸いにしてコンクールで1位となったお陰で、K先生も私の音楽家としての将来を傷付けてはいけないと配慮してくださり、なんとか卒業することができたのであった。
そのような先生が出席されると2週間前に聞かされ、私は少なからず動揺したが、「面と向かって話す状況にはならないかもしれないし」と出かけていった。ところが、先生は待ち合わせ場所の高田馬場駅に来ておられ、すぐに直接言葉を交わすこととなった。「ああ、和波君か。わからなかったよ。ずいぶんスリムになったね」と、先生の声は優しかった。レストランへ向かう道々、先生と腕を組んで歩みを進めながら、私も「あの頃はご迷惑をかけました。先生に心を開くことができなくて」と詫び、先生も「私も反省してるんだよ」と述べられ、当時のわだかまりが解けて行くようだった。
ゲストとしてのお話の中で、先生は「今も始終徹夜をするぐらい忙しいんだ。敵を作って喧嘩ばかりしているからね。選挙の応援もずいぶんやったけど、私が応援した候補者は全員落選だったよ」などと話され、相変わらず先鋭的、攻撃的な一面を覗かせておられた。そういう話をされる声音は、私に優しく語りかけてくださった時のものとはかなり違っていた。「やはりこの先生の性格とは合わないな」と思いながらも、私は50年ぶりにお会いできたことに心から感動していた。さまざまな人との出会いを経験しながら、私たちは年を重ねて行くのだが、K先生との思い出が私の心から消えることは、決してない。
同窓会の新年会で
2013年1月28日