平成から令和へ

2019年4月30日

天皇陛下が「退位したい」とのお気持ちをビデオメッセージで述べられたのは、たしか3年前の夏だった。八ヶ岳の山荘で、レッスンの合間に録画でお話しを聴いたことを覚えている。退位の方法が本当に天皇陛下のお気持ちに沿ったものになったかどうかはわからないが、とにかくその日が来た。ここまでお元気でお仕事を果たされたことに安堵し、国民の一人として深い感謝とともにお礼を申し上げたい。
 私にとっても、30年ぶりに元号が変わるこの日まで無事に生きられたことは実に喜ばしい。いろいろ病気をしたが、医療のお陰で良い体調を維持しながら、楽しい毎日を過ごせていることに、改めて感謝したい。新しい時代には、希望と同じぐらいの不安を持っているが、とにかく健康で、自分にできることを一つ一つ積み重ねて行くしかないと思っている。
 世の中では、「平成」を振り返るさまざまな番組や新聞記事などが出回っているが、自分にとっての平成はどんな30年だったかと、ちょっと振り返ってみた。
 私にとっての最大の出来事は、パソコンを使いこなせるようになったことだと思う。初めてパソコンで文字を書いたのは平成6年のこと、その私の書いた文字に反応があった時の嬉しさは、コンクールに優勝したり、ロンドンのデビューリサイタルで素晴らしい新聞批評をもらった時にも匹敵する大きなものだった。
 平成9年には私のホームページが作られ、製作会社の手でコンサートの情報などを掲載できるようになった。そして平成11年には、会社の人に工夫してもらって、私自身で書き込みのできる「日記ページ」を開設した。まだ「ブログ」がさほど普及していなかったころ、私は熱心にこの日記ページを更新した。今ではフェイスブックやツイッターなど、もっと気軽に書き込めるSNSというものが普及し、私もそれらを愛用しているが、試行錯誤の末にあの日記ページへの書き込みが成功したころのワクワク缶は、今も懐かしい。今では年間に10本ほどしかブログを書かなくなってしまったが、当時は年間40本も書いていたのだから、我ながら感心する。まさに「平成」は、私がコンピューターの世界にのめり込んだ30年だったと言える。
 本業の仕事の方はどうだったかと振り返ると、「昭和の時代ほど活躍できなかったかもしれない」と少し暗い気持ちになる。私が最も多くのコンサート回数をこなしていたのは、1980年代と90年代だったから、平成になってからも10年ほどはかなり忙しく演奏していたことになる。だが、21世紀に入ると、つまり平成12年以降になると、演奏回数が少しずつ減るようになった。
 当時は、桐朋学園のほかに東京藝大と愛知県芸でも教えていたので、指導と演奏の両立にはかなりの努力が必要で、演奏回数の減少はさほど深刻な問題ではなかったが、平成23年に愛知の仕事を終えて桐朋での指導だけになってみると、演奏の少なさが隙間風のように、私の心に染み通ってきた。だが今は、体力的なこともあって、あまり必死になって自分を売り込むことをしていない。「こんな自分でいいのか」と叱咤する声が頭の中から聞こえることもあるが、「そろそろいいんじゃないか」と自分を甘やかす声も聞こえる。
 とは言え、演奏の質だけは、若いころのレベルを保たなければならないと強く意識している。練習する時には、自分の音色に注意深く耳を傾けるとともに、細かい体の動きにも意識を向けて、少しでも無駄な力を抜いて弾けるように心がけている。どんなに頑張っても、技術的なレベルは少しずつ衰えるのだろう。その衰えの速度をできる限りゆっくりにすると同時に、音楽の内容を深める努力も必要だ。それがちゃんとできなければ、ステージに立って演奏する資格はない。
 幸い、今はまだコンサートに足を運んだ方々が私の演奏を喜んで下さっている。それを励みに、「もっと喜んでいただける演奏を、自分でももっと幸せを感じることのできる演奏を目指そう」と思うことが、今の私の力になっている。
 さて、令和の時代になっても、私は日本の音楽界で意味のある存在となれるだろうか。若手でも「とても敵わない」と脱帽したくなる演奏に出会うことが少なくない昨今だが、そうした中で私の音楽の特徴は何なのかと自問することが多くなった。人と比較するのではなく、ひたすら楽譜をよく読んで作品への理解と研究を深め、ステージに立ったら、常に聴いてくださる方々の心を開放し、活力を与えることのできる音楽を目指す、それをしっかり心がけて「令和の時代」に入って行きたいと思う。