年越しを前に

2019年12月31日

 とうとう今年も、あと数時間を残すのみとなってしまった。「大晦日」などというものがこんなに簡単にしょっちゅうやってこられては困るのだが、来るものは仕方がない。そんな風に感じるのは、結局は私が少しずつ鈍くなっていることの証拠なのかもしれない。
 とりあえず、今年は健康に恵まれ、風邪を引いて寝込むようなこともないまま、1年を通して元気に過ごすことができた。毎日の体調の浮き沈みはあるものの、大きな不調に出会わなくて済んだのは有り難いことだった。美寧子も、長い間咳が抜けなくて困ったことはあったが、毎晩遅くまで働いていても、ずっと元気であった。今も、階下からピアノの音が聞こえている。夫婦揃って元気で新年を迎えられるのは、何よりも幸せなことだ。
 さて、私は今月22日に今年最後のコンサートを終えた。バッハの無伴奏を3曲弾いたのである。今回は、いつにも増して試行錯誤の連続で、準備段階ではかなり苦労をしたが、当日には「やれるだけのことはやった」と清々しい気分で本番に臨み、結果もまずまず満足できるものになった。お客様にも、大変喜んでいただいた。
 ところが、である。翌日この演奏の録音を聴いて、私は少なからずショックを受けてしまった。自分の想像以上に出来が悪かったのだ。少しずつ技術的な衰えがあるのは自覚していたが、これほどとは思っていなかった。足元を救われるというか、心にぐさっと何かが突き刺さるようなショックだった。
 衰えを自覚しながら、それを補うための練習はしっかり積んできたつもりだった。いや、ときには「いくらやっても効果がないな」と途方に暮れることもあったが、例えば速い曲でテンポをおとした練習をしたり、細かい部分練習の時間を増やすなど、しっかり対応をとってきたつもりだった。しかし、今回の録音は、それらを頭から否定されたような打撃を、私に与えた。多くの方に喜んでいただけたのは、おそらく演奏に向かう私の気持ちや、音楽的な研究が、辛うじて音楽の質を保たせてくれたのだろう。だが、それで安心していたら大変なことになると、この録音は自分に強い警告を 突付けてきたのである。
 「もしヴァイオリンの演奏を続けるなら、今のままではダメだ。だが、このまま引き下がるわけには行かない」というのが、今の私の心境である。自分なりに努力はしてきたつもりだったが、それでは足りないということだ。練習時間の確保もさることながら、創意工夫を凝らした練習を心がけなければならないだろう。
 間もなく、私は「後期高齢者」と呼ばれる年齢になる。それでも演奏を続けるなら、それなりの覚悟が必要だ。のんびり老後を楽しむこともやってみたいが、今はまだリタイアできない。できないなら、良い演奏・自分で満足のできる演奏に向かって、進んで行くしかない。来年は、自分で「よくやった」と誉めてやれるような1年にしたい。それが、年越しを直前にした今の私の気持ちである。