小さな喜びを経験して

2019年12月8日

いよいよ今年も残り少なくなり、私は2週間後に迫ってきた「バッハリサイタル」に向けて、少し焦る心を抑えながら練習などの準備をしている。いつも美寧子がお手製で作ってくれるプログラムの原稿も出来上がり、いよいよだなと緊張が高まる。
 もう四半世紀も続けてきたシリーズだが、コンサートが近づけば今でも緊張する。「ちゃんと真面目に生きている」という証を立てたいと、そんな気持ちで勝手に緊張しているのである。勿論、私が力んだところで、何も良いことはないのを知っているから、当日が近づいたらもっと心の力を抜くように意識しようと思っている。
 ところで、先日ちょっと楽しいことがあった。学生のレッスンをしていて、「もうちょっとテンポを動かしてもいいから変化を付けて弾いてみよう」とアドバイスしたが、なかなかイメージ通りにならない。伴奏に不慣れなピアニストも、なんだか萎縮した弾き方をしている。そこで私は、前日から忙しくて手にしていなかったヴァイオリンを取り上げた。あまり優しい曲ではないし、ずっと弾いたことのない曲だから、まともに弾けないのはわかっていたが、それでも自分のイメージを伝えてやろうと、とにかく弾き出した。
 すると、それまでただ音を追って伴奏しているだけだったピアニストが、私のテンポの動きに連れて、ぴったりと合わせてくれるではないか!「ああ、これが音楽のメッセージなんだ」と嬉しくなった。練習した曲でなくても、私は自分のイメージを音に込めて伝えることができたし、そのメッセージを、50年以上年の離れた初対面のピアニストが即座に受け取ってくれたのだ。そう、音楽に言葉は必要ない。音楽家は、こうした音楽のメッセージをやり取りする能力を持っていれば良いのだ。私は、相手に受け取ってもらえるメッセージが出せたことに満足した。
 だが、この「音楽のメッセージを出したり受け取ったり」が、実はなかなか難しい。技術のある人でも、そこが不十分だと、教えるのがとても難しくなる。生まれながらにそのような才能を持っている人もいるが、努力して音楽家を目指しているような人には、もしかしたら技術的な勉強に偏りがちなケースが多いのかもしれない。
 50年近くも教えてきて、私には生徒に教え切れない、伝え切れないことが余りにも多かったような気がする。勿論、生徒との関係は私一人の問題ではなく、相手の能力や性質にも関わってくるわけだが、もう少し「音楽の何たるか」をしっかり教えられればよかったと、いささか後悔している。
 それは、取りも直さず私自身の音楽が、まだまだ確立していないことの証拠かもしれない。せっかく演奏の機会があるし、練習の時間もあるのだから、音楽家としての自分をもうちょっと高める努力をしてみよう。そうすれば、もっと多くの人に喜びを届けることができるようになるかもしれない。まずは、今年のバッハを聴いて下さる方々に、これまで以上の充足感を持っていただけるような演奏を目指して、残りの日々を過ごそう。
 明日も、3人の生徒がレッスンにやってくる。「自分を磨くための実験場」と考え、遠方から訪れる生徒たちとしっかり向き合おう。そこから新鮮な何かが生まれることを信じて。