明日はあづみ野

2019年10月25日

八ヶ岳サマーコース、セイジ・オザワ松本フェスティバルと、夏の忙しい行事を終えて東京に戻ったのは、9月10日のことだった。それから40日、私の頭の中はずっと今日、10月20日のコンサートのことでいっぱいだった。勿論、他の仕事もきちんとやっていたつもりだが、常に頭のどこかでは今日のコンサートのことを考え続け、マーク・ゴトーニさんを迎えての共演が成功するように、自分自身の練習も重ねてきた。
 だが、なぜか夏の疲れがなかなか癒えず、目に見えないストレスを抱えた日が続いた。「10月のコンサートは自分にとって最大の楽しみだったはずなのに、なぜこのような重圧を感じるのだろう」といささか不思議に思いながら、毎日を過ごしてきた。そして、台風19号が荒々しく去って行った後の15日から、我が家で5人のリハーサルが始まった。
 マークと、奥様のチェリスト、水谷川優子さんとは4年前に初めて共演したのだが、その時はマークがヴィオラで参加してくれ、私は「知り合いのチェリストのご主人」ぐらいの軽い気持ちで接していた。しかし、リハーサルから本番に至る過程で、彼の音楽的な強い働きかけによってアンサンブルが生き生きとし、音楽に美しい流れができて行くことを体験して、「彼はすごい音楽家だ」と実感したのだった。
 その後も交流を続け、私の生徒がベルリンの彼のもとへ留学したり、東京で現役の生徒のレッスンをしてもらうなどの経験から、私は彼の人間的な素晴らしさと音楽的な見識の深さにますます魅了されるようになった。そして今回は、彼を本来の「ヴァイオリニスト」としてアフタヌーンコンサートに迎えることができたのである。
 チェロは水谷川さん、彼女の同級生で私たちとも何度も共演している中村智香子さんにヴィオラをお願いし、土屋美寧子のピアノとともに、メインはブラームスのピアノ五重奏曲、他にマークにヴァイオリンを受け持ってもらってのモーツァルトのピアノ四重奏曲、それにマークと私のバルトークのデュオ、というプログラムである。
 マークの来日を待って3日連続のリハーサルを重ねたが、やればやるほど、私はマークの素晴らしさに圧倒され、「こりゃ太刀打ちできないな」と心の中で舌を巻く毎日だった。なにがすごいかと言うと、ブラームスでは第2ヴァイオリンを弾いていながら、音楽全体を見通して他のメンバーをしっかりサポートしながら、音楽を推進していく力を持っていること、そして時折現れるソロ的な部分と、支える側に回った時の音色と表情の変化の多彩さなど、まさに音楽が必要とする様々な対応能力を備えていること。それは勿論、テクニックが磨かれていることもあるが、むしろそれ以上に、音楽をよく考え、何があっても受け止められるような懐の深さを持っていることに、私は感嘆してしまうのだった。
 私は、日頃から悩んでいる右手の使い方についてマークの意見を聞いたり、彼の弾き方からなにかのヒントを得ようと懸命にやっていた。5人が、互いの音を聴きながら刺激し合い、次第にこのチームとしての音や表情が出来てきた。
 そして一昨日は、清里清泉寮での演奏。中央線のあずさが動いていなかったため、新幹線の自由席で佐久平まで行き、そこまで車で迎えに来ていただいて移動した。昨日の朝も、5時半に起きて出発準備をし、8時半頃の新幹線に乗ったが、既に通路まで人がぎっしり立っていて、とても座るどころではなく、美寧子と私は高崎から在来線に乗り換えて帰ってきた。
 一夜明ければ、アフタヌーンコンサートである。もともとかなりタイトな日程だったうえに、台風の影響も受けてしまったため、コンディションは必ずしもベストではなかったが、朝になるとそんなことは忘れてしまう。「とにかく良い音楽をやろう。良い会にしよう」とそのことだけを考えて集中した。おそらく、全員が同じだったに違いない。リハーサルでうまく行かなかったところも、本番ではほぼ修正できたし、みんなのトークもお客様に喜んでいただいた。どうやら、「できることはやった」と思えるコンサートに鳴った。
 と、ここまで書いているうちに、なんと5日間が過ぎてしまった。コンサートの夜に書き上げるつもりだったのに、「疲れたから明日にしよう」と寝てしまったのが間違いだった。疲労感は日を追って強くなり、毎日の仕事をこなすのがやっとだった。ヴァイオリンを練習しても、あまり良い音がしない。「コンサートではちゃんと弾けたのに、なぜこんなことに」と焦るほど、体調がダウンしてしまった。
 だが、明日は長野県の穂高まで遠征して、同じプログラムをあづみ野コンサートホールで演奏する。今朝に鳴ると、心と体にスイッチが入り、ヴァイオリンの音も気のせいか輝きを増したように感じられて、昨日までより楽しく1日を過ごした。また彼らと一緒に演奏できる!その喜びが私を目覚めさせたようだ。
 明日もあずさが運休なので、朝は6時に家を出て、長野と松本を経由して穂高へ向かう。20日以来リハーサルをしていないから、向こうに着いたらすぐに練習し、2時から音楽会、いつもの楽しい打ち上げも失礼して、大急ぎで帰りの列車に乗らなければならない。
 だが、そうすることで私たちは新たな「音楽の喜び」が味わえる。これまでの2回の演奏の経験を生かして、今回の共演の最終回ではどんな巡り会いが待っているのだろう。とても楽しみだし、聴きに来て下さる方々にも、最高の幸せをお届けしたいと願っている。