今日の午後、母の住んでいた8角形住宅の1階部分の貸借契約が終了し、家を引き渡した。この家は、元々は私たち、和波一族の家として1990年に建てたものである。母が自分の一人住まいのためにいろいろと考えて設計し、弟が建てたのだ。私の言えとは工法が全く違うのだが、それでもほとんど「1軒の家」という感覚で、非常に接近して2軒が立っている。母と私たちは独立した関係で、しかも簡単に行き来できる、まさに理想的な建て方だったのだ。
弟一家も同じ敷地内に住み、恵まれた時が流れていたのだが、いろいろな事情があって母の家も弟の家も人手に渡ることとなった。今から12年前のことである。弟は引っ越していったが、新しい買い主は、母が今まで通り住み続けることを認めてくれたので、私が家賃を払って借りることとなった。弟の家に入った大家の奥様は、母にも大変親切にしてくださった。お陰で、母はお気に入りの家で最後まで過ごすことができたのだった。
だが、母がいなくなれば、もう家賃を払い続けることはできないので、今日をもって契約を解除することを申し入れた。母の持ち物は大変多かったため、整理や片付けは大変だった。特に弟がよく働いてくれたし、美寧子も頑張った。私も、少し頑張ったが、それよりも母とのたくさんの思い出のある家が、今度こそ本当に他人の手に渡ってしまうことが寂しくて、何とも言えない気持ちで今日を迎えた。
私の出費を少しでも減らすため、弟は仕事の日程をやりくりして懸命に片付けをしてくれたし、みんなで一致協力して事に当たっている時に、私だけがいたずらに感傷的な気分に浸っていることは許されないと思えた。だが、母と一緒にボランティア活動をして下さっていた仲間の16人が集まって、思い出の品々を持ち帰って下さり、続いて昼食会を開いた時は、母を慕って下さる仲間の方々のお心にふれて、弟も感動の涙を流していた。
母は常々、「こんなものをとっておいても、私がいなくなれば棄てられてしまうのにね」と言っていたが、本当にたくさんの衣類や飾り物、書類などがあって、選別は大変だった。私が子供の頃に弾いたという手風琴、これは母方の祖父の形見だったとのことだが、そんなものも出現した。処分の前に、私はそれを手に取り、母の心を偲んだ。母が私のために楽譜を点訳する時に使っていた2台の点字タイプライターは、幸いにも、大阪にある日本ライトハウスの資料室に展示していただくこととなった。
ある夜、私は母のお気に入りだった風呂に入った。足が伸ばせるようにと湯船を大きくしたため、洗い場が狭くなり、それが災いして、去年の骨折後はこの風呂に入れなくなってしまったが、20年余り愛用していた母の風呂だ。私の家は西洋式のバスなので、時々日本の風呂に入りたくなり、最初の数年間は、ヨーロッパから帰国した直後など、何回かこの風呂に入れてもらっていたが、今回はほぼ20年ぶりに、湯船にたっぷりとお湯を満たしてゆっくり浸かり、元気だった頃の母に思いを馳せた。
もう一度、あの気持ちの良い湯船に浸かりたいと機会を狙っていたが、毎晩遅くなってしまって、ついに果たせないまま今日を迎えた。午前中にガスが止められたが、私は楽器を持っていって、家具がすべて持ち去られたリビングルームで、2時間近く弾いていた。ヴァイオリンの音を建物の隅々までしみこませるような気持ちで、ひたすらブルッフの協奏曲を練習した。
そして3時に、点検に来た不動産会社の人にキーを渡し、すべてが終わった。家はそこにあるが、もうそれは私の立ち入れない場所になった。
母が意識を失った立春の日、あの日の朝、私は母の求めるままに車椅子をキッチンまで押して行き、母が立ち上がるのを後ろから支えた。母は自分でカップに水道水を注ぎ、薬を飲んだ。今日、私はそのキッチンで水道の蛇口を開け、水の音を聴いた。母との最後の大切な思い出を、いつまでも心にとどめておくために。
4月2日には、七七日忌の法要を行い、墓地に行って納骨も済ませる予定だ。そして、これからは生きてゆくための仕事に集中する。月が変わるのと同時に、私も気持ちを切り替えなければと思う。