2ヶ月ぶりの日記

2014年3月30日

 母が亡くなってから、間もなく6週間が過ぎようとしている。この間に何回か日記ページへの投稿を試みたが、その都度挫折してしまい、更新ができなかった。何を書いたらよいかわからない、何を書けばよいかわからない、そんな気持ちになってしまうのだった。しかし、いつまでも心を閉ざしていては、自分の精神衛生にも良くないと思う。自分の気持ちを素直に表現できる文章力が私にはないし、あれこれ考えて書き始めても、「これは今の気持ちとは違うな」などと辞めてしまっていたのだが、もうそこはスキップしてしまおう。
 母の体調が悪化し始めたのは、去年の年末だった。あれから1ヶ月半のことは、未だに夢の中の出来事だったような気がする。だが、その間に私は、母をこれまでになく身近な存在として感じていた。中でも嬉しかったのは、母が私の介護を受け入れてくれたこと。ちょっと面倒なことは「美寧子さんを呼んで」と私にはやらせなかったのだが、最後の10日間は、私が夜の着替えを手伝うことを受け入れてくれた。不器用な私がおむつを着けるのに、母はよく協力してくれたが、さぞ大変だったと思う。
 1月31日からは、巡回型の介護サービスを始めたので、夜の着替えもヘルパーさんがやってくれることになった。その前日、「僕は今日までで、明日からはヘルパーさんが来るからね」と言うと、「残念ね」と母は言った。深い意味はなかったと思うが、その声は今も私の耳に残っている。別の日には、「親子っていいものね」とも言ってくれた。「僕もこうして手伝えて嬉しいよ」と応じたが、あれが今の私にできる精一杯の親孝行だった。
 一方で、母はどうしても宵っ張りの性格が治らず、「12時までにはベッドに入ってね」と頼んでいても、ベッドに入ったのを確認して隣の自宅に戻ると、1時近くなっていることも少なくなく、「これが何ヶ月も続くようだと困るかもな」と心のどこかで考えていたのも事実だ。きっと母には、そうした私の気持ちなど、手に取るようにわかっていたのだろう。
 2月4日に救急車で最後の入院をした後も、退院後は自宅で介護を続けるのか、それとも施設を探すのか、はたまた退院できるまでに回復するのか、といろいろな事態を想定しながら、少しずつ考えを巡らせていたが、「そんなに心配しなくていいわよ。私はもう十分に生きたから」と言わぬばかりに、母の心臓は動きを止めてしまった。それも、真夜中に旅立つとは、いかにも母らしいではないか。翌日の昼過ぎには見舞いに行く手はずだったのに、母は待っていてくれなかった。
 ただ、前日には弟がゆっくり一緒に過ごしたし、私も3日前にはかなり長時間病院にいて母と一緒の時間が過ごせたので、本当に良かった。食事が取れないので、足からカテーテルを入れて栄養の補給をすることになり、同意書にサインして先生が処置を試みたが、血管が曲がりくねっていてカテーテルを入れることができず、中止されたのがその日だった。もう、母の体は限界を超えていたのだ。
 人間は、生まれれば必ず死ぬ。それに、母は95年の長寿を全うしたのだから、いたずらに悲しむことは、かえって親不孝になるだろう。今の私の気持ちは、「悲しい」というのとは少し違うようだ。「喪失感」とでも言えば良いだろうか。種々のプレッシャーから解放されて、ある意味ではほっとしているのに、「本当はほっとしてはいけないのではないか」といった不思議な罪悪感のようなものも心のどこかにある。母の魂も、おそらくは息苦しさや痛みから解放されてほっとしているのだろうが、それでもなにかしら割り切れないもの、「本当にこれでよいのか」といった疑問のようなものが残っている。
 私は、ゆっくりとこの「喪失感」を味わいながら、これからも現世を生きてゆく。「死ぬというのは、ちょっと角を一つ曲がるようなもの」と、ある追悼会で牧師さんが言っていた。私もそう思う。母はすぐ側にいる。だが、その場所とは連絡が取れないし、行き来もできない。ほんの数メートルの距離なのに、そこへ行った人は決して戻ってこられないし、逆に私はまだそこへ会いに行くことは許されていない。もっとこちら側で頑張ってからでないと、入れてくれない世界なのだ。
 「頑張るからね。だから、見守っていて欲しい」と、母に言いたい。私たちが帰依している浄土真宗では、「死んだ人はたちまち仏となり、生きている我々を守ってくれる」と教えている。きっとそうなのだろう。母の書き残したものには、私の目が見えないことへの悲しみが、想像以上に大きかったことを伺わせる記述が多くあった。「こんなに息子の目のことにこだわっていたのか」と驚いたのだが、だからこそ母は、私のために一生懸命働いてくれ、その後は65才を過ぎてからボランティア組織を立ち上げ、一人で上京する視覚障害者のお手伝いを続けていたのだ。その母の志に報いるには、私が悔いのない人生、楽しい人生を送って、笑顔で向こう側の世界へ会いに行くことしかない。母はきっと、そんな私を守ってくれるのだろう。そう思うと、少し元気が出てくる。「よし、楽しくやるぞ」と思う。この気持ちを忘れず、明日からの毎日を暮らしてゆこう。同時に、一人でも多くの方々の役に立てる仕事をさせてもらえることを願って、日々努力を続けてゆこうと思う。