幸福な経験

2017年2月15日

 もう2週間以上前の話だが、 ベルリン芸術大学のマーク・ゴトーニ教授に、わがやで生徒たちのレッスンをしていただくという幸福な機会に恵まれた。奥様でチェリストの水谷川優子さんを通じて1年半ほど前に知り合い、ピアノ四重奏のコンサートを開いたのだが、ヴィオラで参加してくれたゴトーニ氏の音楽とお人柄に、私はすっかり魅了された。その後、 生徒の古澤香理 さんの レッスンを して いただいたり、 ご夫妻のコンサートを聴きに行くなど交流を深める中で、今回5人の生徒の レッスンを 自宅でして いただくと いう 嬉しいプランが 実現した。
時間が限られていたので、どの生徒にレッスンを受けてもらうかで少し悩んだが、結局私の独断で4人を選び、古澤さんと合わせて5人を聴いていただいた。ゴトーニ氏のことは普段から「マーク」と呼んでいるので、ここからは「マーク」と書かせていただくが、そのマークのレッスンは誰に対しても非常に丁寧で、過度に煽てたり、厳しすぎたりせず、それでいて要点はしっかり指摘する、合理性と温かさを併せ持ったレッスンだった。日ごろから私が繰り返し注意しているのと同じ指摘を受けたケースもあったし、私があまり気付いていなかった点をアドバイスしていただけたところも多く、長時間のレッスンにも全く疲れを見せない誠実な態度で一人一人の生徒に接してくださった。
 ある生徒には、「右手の小指が弓から離れていて、ちゃんと機能していない」との指摘があり、私はそうしたことに気付いてやれない無念さを感じながらも、今それに気付かせてもらえたことに感謝と安堵を覚えた。また別の生徒には、「体のセンターをもっと意識すると、芯のあるしっかりした音が出るし、技術的な難しさも改善されるだろう」とアドバイスされた。立つ時に、腹の舌に少し力を入れ、体の中心をしっかりさせようとすると、末端の力が抜けて楽器が扱いやすくなる。それは私もわかっていて、よく生徒にも話すのだが、実際に生徒がどのような体の使い方をしているかを見ることはできないので、このマークの指摘は大変有難かった。
生徒たちにとっては、毎週習っている「ホーム」の先生とは違う先生のレッスンが大変良い刺激になるが、その先生とホームの先生の目指すものや音楽的な思考がずれていると、生徒は混乱するし、普段教えている先生にとってもあまり幸福なことにはならない。だが、マークの音楽についての考え方や演奏法に私は強い共感を抱いており、それに加えて今回は彼のレッスンの進め方や言葉の選び方などからも多くを学ぶことができた。
 わかり切ったことだが、良い指導者となるには人柄が大切だと、改めて痛感させられた。私は、けっこう喜怒哀楽を出してしまう性格なので、時々生徒に申し訳内と思うことがある。それは、自宅でのレッスンだけでなく、他の先生の教室を手伝いに行ったような場合も同じで、「なぜもっと紳士的に振舞えないのか」と自分を腹立たしく思うこともある。生徒がなかなかわかってくれないと、つい苛々したり、その出来ない場所に拘って同じことを繰り返しいい続けたり、しつこくやってしまう。だが、マークのレッスンにはそのようなところが全くなかった。勿論、私に対して気を使ってくれた面もあっただろうが、それだけでできることではない。来日の翌日という、ただでも時差などで苦しむことが多い日に、最後まで集中力を切らさず丁寧に教えてくれたのは、それだけ強固な基礎体力や精神力を持っておられるということなのだろう。それがある種の余裕を生み出すのだと、強く思った。
 私が何かにつけてパニックになるのは、特に精神的な余裕が足りないためだと感じる。視力がないために、生徒を十分に観察できないとか、楽譜にも素早く目を通すことができなくて時間がかかるなど、私がレッスンをする上でのいろいろな問題はあるが、それはもうずっと前からわかっていることなのだ。だから、そうしたことでいちいち心が追い込まれないように、普段から備えておかなくてはならない。また、生徒がなかなか私のやって欲しいことを理解できない時も、自分の心の奥野方で「目の見える先生だったらもっと上手に伝えられるのかもしれない」といったコンプレックスがあって、それがイライラを作り出しているのかもしれない。苛々する前に、1歩下がって考えて、私なりの別な伝え方がないかを工夫する冷静さが必要なのに、時々その余裕が失われてしまうのだ。
 このようなことは、70才を過ぎたベテランの口にすべきことではないが、マークのレッスンは、そうした多くのことを私に思い出させてくれたのだった。今更遅いかもしれないが、私ももう少し良い先生になれるよう、体と心の鍛錬を重ねたいと、今は強く思っている。今回のマーク・ゴトーニ氏のレッスンは、生徒たちにも私にも、本当に幸福な経験を与えてくれるものであった。