最後の試験

2020年2月18日

今日は、桐朋学園で私が採点を担当する最後の試験となる、高校入試が行われ、10時から3時まで28人の演奏を聴いた。出席した全ての先生にとても小さなお菓子を差し入れ、私なりの感謝の意を表した。
 規則とは言え、私を定年退職させる学校にはさまざまな思いがある。しかし、翻って考えれば、ここは私を31年間教師として働かせてくれた学校でもあったのだ。東京藝大も愛知県芸も、非常勤講師の任期は6年と定められていた。桐朋では、その5倍もの長い間、教え続けることができたのである。それを思えば、感謝の気持ちしかない。
 昨年の夏、私は担当学生がまだ残っていることを理由に、定年を延長してもらえないかと、再三伺いを立てていた。当時は、「自分はまだ教える能力があるし、生徒もそれを望んでいる」と固く信じ、何が何でも残りたいと思っていた。特任教授として75才を過ぎても教えている先輩がおられる事実も、こうした思いを強くしていた。
 特任教授になっている方々は、おそらく常勤の先生方ばかりだから、非常勤から特任教授へ、というのは少々厚かましすぎる。そのようなものにならなくても、生徒が残っている間だけ教え続けさせてもらえればよかったのだ。
 だが、否定的な回答しか帰ってこない。そこで、「私の誕生日は4月1日である。この日は既に来年度に入っているのだから、もう1年間勤める権利があるのではないか」と言ってみた。だが、最後はこれも否定された。
 悶々たる気分で過ごしながら、それでも私の気持ちは少しずつ変化した。「過去を振り返っていても始まらない。桐朋を辞めて、新しい自分になろう」と気持ちが少しずつ切り替わった。いや、そうするしか切り抜ける方法がなかったのである。
 教えるために、私は目の見える人にはないさまざまな努力や工夫をしてきた。生徒との関係で苦労をしたことも、告白しなければならない。勿論、目の見える先生にとっても教えるのは大変な仕事だが、私の場合はプラスアルファーがある。それはおそらく、全ての人が理解してくれるだろう。
 だが、努力して教えることは、私の勉強でもあった。弾くことと同様、それはいつか私の生きる支えとなっていた。勿論、これからもプライベートのレッスンは続けたいと思うが、学生の場合は、試験課題をどうするか、卒業後の進路は、などと心を砕かなければならないことも多い。試験の度に他の学生と比較されることは、本人にとってだけでなく、指導者にもプレッシャーである。それをいかに乗り切るか、どうすれば私の指導の方向を学生に正しく理解してもらい、実践してもらうことができるか、と考えるのは、優しいことではないが、やり甲斐のある仕事でもあった。
 3月まで、学生へのレッスンは続く。だが4月からは、完全に学校との関わりがなくなる。31年間続けてきたことが、本当に終わるのだ。まだ、その日を実感することはできないが、寂しさをもエネルギーに変えて前へ進む力を私に与えてくださいと、神に祈りたい心境である。