コロナ禍の年末に

2020年12月29日

今年もいよいよ残り少なくなってきた。全く、異常な1年だった。そして、その異常さが今でも続いているのだからやりきれない。なぜもっと感染を食い止められなかったのか、と悔やまれるが、私一人にどうにかできる話ではないから、余計にむなしい。
 日曜日のNHKスペシャルで、「一般に言われているよりかなり早く、中国やヨーロッパで感染が始まっていた可能性がある」と報じていた。私は今年1月、春節の休みを利用して北京からやってきた小学生を受け入れ、2回のレッスンを行った。その子供は、去年の「八ヶ岳サマーコース」に参加し、その後また私のレッスンを希望して、お母さんと東京へやってきたのだった。私たちは、マスクも付けずに会い、話し、レッスンをした。今では、どんな訪問者に対してもマスクを付けて接していると言うのに。
 あのとき、すでに中国ではコロナの感染者が出ていたが、日本を訪れる中国人への規制は全くなかった。「来られてよかったね」と話したものだ。なんと無防備だったことだろう。
 もちろん、私の方にも、その子供の方にも、なんの異常も起こらなかった。だが、コロナで怖いのは、無症状のまま他人に感染させてしまうことだ。それを防ぐには、とにかく家にこもるしかないのだが、それは非常に難しい。4月、5月のように、国や自治体の長がしっかりメッセージを出さない限り、人の移動を止めることはできないだろう。
 今にして思えば、その「緊急事態」の間、全く外出できない状態で過ごしていたのが、なんとも言えずむなしい。要するに、緩めるのが早すぎたのだ。
 私が代表を務める「点字楽譜利用連絡会」は7月4日に総会を開いたが、私はかなり早い段階で開催するか否かを仲間と相談した。その時、一人の先輩が「もうその頃には規制が緩くなっているはずだから、開催できますよ」と断言した。その理由は、「経済が回らなくなるから」というものだった。たしかに、その人の予言どおりになった。
 しかし、何もGo-Toまでやらなくてもよかったのではなかろうか。あれはそもそも、コロナが収束してからやるはずのものだった。だから、国民は「もう収束しつつあるから大丈夫なんだ」という、間違ったメッセージを受け取ってしまった。結果として、今になっていくら引き締めても、国民はなかなか引き締まらないのである。
 私だって、先週は東京で「クリスマス・バッハシリーズ」のリサイタルを開いた。お客様は例年の半数だったが、それを全く感じさせない熱い反応が帰ってきた。アンケートにも、「コンサートをやってくれてよかった」とのお声が多数寄せられた。コロナを心配して外出を控えた方もおられたが、「音楽が聴けるなら出かけよう」と思ってくださった方も少なくなかったのだ。
 来年もやはり、規制がかからなければできるだけ演奏の機会を作ろうと思うのが、私たち音楽家の習性である。それは決してお金儲けのためではない。このような時だからこそ、生の音楽を共有していただくことが大切だと思っているからだ。だが、感染防止だけを考えるなら、やはり催し物は控えるべきだろう。ここに、大きな矛盾が発生する。コロナの収束を望むが、可能なら活動は続けたい。我ながら、相当にエゴだと思う。
 こんなことで悩まなければならないのも、全てがコロナのせいだ。「接触と密を避ける」という今の生活様式は、視覚障碍者にとっては大変な不便と不自由を強いられるものだ。でも、私たちは我慢し、先に希望が見えてくることを信じて生き続けるしかないのだ。
 私にとって非常に幸運、かつ有り難かったのは、このバッハシリーズで、今後自分の演奏が向上するための一つのヒントを掴むことができたことだ。大学を定年退職し、私の心にはポッカリと穴が空いた。同時にコロナが襲ってきた。余暇時間が増えたのに、私は練習する意欲を失いかけた。
 だが、7月末に延期された静岡交響楽団との協演を皮切りに、いくつかの良い演奏の機会が与えられ、心に活気が戻った。そして今回は、自分に集中する時間が増えたことで、より丁寧な練習ができたことを実感する結果になった。久しぶりに、弾いていて体が軽やかに動くことを感じ、「安心して弾ける」という感覚を取り戻した。「もう年だから仕方がない」と諦めかけていた技術的な衰えを、少し抑制することができた。そして、今は「もう少し上を目指したい」と新たな目標を設定する気持ちになっている。
 こうした前向きの気持ちになれたのは、多くの方々のサポートのお陰である。ほぼ3週間に一度のヨガのレッスンに加えて、オンラインヨガを始めたことも大きかったかもしれない。これも、リモートで指導してくれる先生たちの配慮があって、私は参加できている。他にも、いろいろな嬉しい出会いがあり、心が救われる経験をした。そうした恩恵を受けつつ、私はコロナ禍の新年を迎えようとしている。
 私と同じように、元気な年末を過ごしている妻にも、改めて感謝の気持ちが湧いてくる。これまでにも増して家にいることが多くなってしまった亭主を邪魔にせず、いつも工夫した料理を作ってくれている彼女。最近は、二人での食卓が前より楽しくなった気がする。「これが年の功なのか」と思うことがあるが、とにかく自分の家が「居心地の良い場所」になっているのが、コロナ禍では何よりも有り難いことなのである。
 来年になっても、きっとまた落ち込む日があるだろう。先を考えると、それだけで不安になるが、穏やかな日常が戻ることを願いながら、毎日をできるだけ楽しく過ごしたいと思っている。