コンクールで1位になった日

2013年4月30日

 4月は、2回の本番に恵まれて幸せな1ヶ月を過ごした。気温の上下が大きく、体調を崩しかけたときもあったが、なんとか切り抜けた。久しぶりにステージに立って、やはり音楽で聴き手に語りかけている時の自分が一番幸せなのだと、強く思った。ここまで私がどうにか元気に生き続けてこられたのは、素晴らしい音楽があったから、とそんな思いが日増しに強まるこの頃だ。
 今まで長い間、私は音楽に力づけられ、音楽に叱咤され、そして音楽に癒されてきた。聴き手としても弾き手としても、音楽に育てられ、音楽に助けられ、音楽に希望を与えられてきた。
 デビューする前年、つまり今から51年前のこと、私は日本音楽コンクールで1位をいただいた。その日の日記には、「コンクールで1位になった。バンザイ」と、それだけが書かれている。だが、この日のことはかなり良く覚えている。
 私は7人の出場者中、2番目に演奏した。こちこちに堅くなり、練習の成果を十分出し切れないまま終わった。今では生徒たちに「自分が弾いた後は、なるべくたくさん他人の演奏を聴きなさい」とうるさく言う私だが、あの時は両親をホールに残したまま、父の会社の自動車(私用で使ってはいけなかったはずだが)に乗って我が家へ逃げ帰ってしまった。そして、発表を知らせる電話が入るまでの3時間か4時間、ただただLPレコードで音楽を聴き続けていた。電話のベルが鳴った時は、たしかラヴェルの「ラ・ヴァルス」を聴いていたのではないかと記憶している。
 レコードを聴きながら、頭の中にはいろいろな思いが浮かんだ。「もし入賞できていなかったら、明日学校で友達に何と言おうか」「江藤先生には何とお詫びをすれば良いのか」ほかにもさまざまな思いが渦を巻いて板に違いない。それが、「1位です」というT氏の声で吹き払われた。両親はまだ帰っていなかったが、私はそこいらじゅうを跳ね回りたい衝動に駆られた。
 盲学生音楽コンクール、全日本学生音楽コンクール、そして日本音コンと、私は4年毎に1位をいただいたが、1位はこれが最後だった。「海外でも1位を取ってやる」と意気込んだものの、それは夢だけに終わった。
 悔いがないわけではないが、3度の1位はやはり掛け替えのない過去の財産なのだと、今になって思う。それをよりいっそう輝かしいものにするには、これからの私がさらに向上し、より良い音楽家になって行くことが大切なのだ。今の自分に留まりたくない、もっと豊かな表現が可能なヴァイオリニストに変わってゆきたい、と痛切に思う。それが音楽への唯一の恩返しなのだから。